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橋本努・全学講義「学問の技法」

2004年度、学生レポートのサンプル1

 

 

講義を受講された皆様、半年間、お疲れ様でした。皆様の積極的な参加によって、本講義は、とても意義深いものになったように思います。私にとって、教育に生きがいを感じることのできる時間でした。参加された皆様に、あらためて感謝いたします。

 新入生の方へ。学生レポートの「サンプル2」をぜひご覧下さい。「これから読みたい本50冊」、「後輩に薦めたい本3冊」、「古本屋めぐり」という三つのテーマに基づくレポートが、掲載されています。

 

 

大学改革案についての感想

15040029 中村 圭宏 

 一般教育演習「学問と技法」を受講して、とても新鮮さを感じました。先生の出した課題について、学生が積極的に発言し先生がそれに答える。高校の授業でもディスカッション式のものがたまにありましたが、この授業ほど生徒も発言しないし、先生も答えていなかったです。また、僕がとっている他の授業もだいたいが講義形式の授業なので、初めの授業では発言できませんでしたが、次回からはしっかりと自分の意見を言っていきたいです。

 今回の大学改革案のシステムは、確かに、大学に入ってから勉強しなくなるという現在の状況を変えることができるかもしれません。大学卒業の資格を得るために、三年進級資格のために大学入学後も勉強を続けなければならないし、また、ローンをくんで自立して大学に通うため、お金を払って授業を受けていることを意識して、一回一回の授業を大切にして、サボることも少なくなるでしょう。

 しかし、いくつか気になる点もありました。まず一つ目として、三年次進学資格が一、二年の自己発見期の活動を妨げはしないかということです。三年次進級の時に、現在の二次試験にあたる試験をやる目的は、今より多くの人に大学入学の機会を与え、一、二年の時に留学したり、官庁や企業で働いている人の話を聞くなど、様々な経験を積み自己を発見するためのはずです。現状のシステムのままで、高卒の人や進学を目的にしない人にとっては、実際今までより多様な経験ができるでしょう。だが、進学を目指している人にとっては、1,2年の間は三年次進級資格を意識した勉強内容となってきます。もし、三年時進級資格を取る試験が歴史や数学などであれば、1、2の間の勉強が現在の大学受験の延長になり、受験科目に限定した勉強になってしまう。そうなってくると、受験科目以外の自分の興味のあるものに時間を割くことがあまりできなくなるのではないでしょうか。留学やOJTなどの経験ができずに、受験勉強ばかりしていては、自己発見期間という趣旨にあわないのではないかと思います。

 二つ目として予備校教師を外部から呼ぶということです。先生は予備校教師を呼ぶ理由を、質の高い授業をするからと言い、質の高い授業をするのは予備校教師が実績を上げれば、高い給与をもらえる年俸制だからと言っていました。それならば、国立大学の先生も年俸制にすれば、意欲が高まり質の高い授業が実現するのではないでしょうか。確かに予備校の講師はわかりやすい授業をしますが、大学にも優秀な先生方がそろっているはずです。現状のままでも学生に対して良い授業をしてくれる先生もいます。そういった先生を評価するためにも、また、そうではない先生の意欲を高めるためにも、年俸制は良いのではないかと思います。

 

             学問のレポート2

                  156040029  中村 圭宏

今回は、おもに授業で扱った学問と勉強について、今までの経験とからめて書いていきたい。私の中のイメージでは、大学とは学問をする場所である。しかし、まだ私は学問といえるものはできていない状況である。大学に入ってから一ヶ月ほどたち、授業もそこそこ受けたが、先生の定義する「答えの確定していない新たな問いを発すること」である学問からほど遠い勉強をしている。英語にしても授業形式こそ高校のころと変わったが、単語の意味を調べて、英文を読むという部分は同じである。また、私は法学部だが、必修の法学入門にしても、判例を覚えたり法律の趣旨を覚えたりする限りにおいて、新たな問いを発するということは不可能である。私はこのように今まで学問をしたことが一度もない。高校までは、数学や英語にしろ、すべてのものに答えが存在した。まして国語に関しては、答えは文中にあるから答案に自分の考えを書いてはいけないとまでいわれたことがある。このような解法などの知識を詰め込む勉強は、機械的な作業であるので柔軟な思考を妨げると指摘される。しかし、私はこの勉強にもたいへん重要な意味があると思う。

 まず、中学、高校の典型的な詰め込み型の勉強では誰にでもいい点を取るチャンスがあるので、多くの人が勉強することの楽しさを感じることができる。というのは、勉強とは学問と違って、ある問いに対する答えを学ぶことだと先生がいうとおり答えが明白であるので、解法などの知識をあてはめていけば必ず答えが出る。したがって、どれだけ知識を覚えたかにかかっているので、やればやっただけ目に見える形で成果があがってくる。成果が上がれば、誰でも気分がよくなり、勉強は楽しいと思うようになり、知的好奇心を感じるようにもなるだろう。また、勉強を楽しいと思いさえすれば、毎日机につく習慣ができるだろうし、精神的にきつい受験期間をのりこえることで、目標を立て達成する喜びを知ると同時に忍耐や強い精神力がつくと思う。

このように、勉強で身に着けたことが学問をするにあたって重要になってくるだろう。というのは、勉強をやっていくことで、プリントにあった学問を続ける六つの能力のうちA集中力B興味、関心D目標にあてはまる部分を身につけることができるからである。私が思うに、詰め込み式の勉強は学問をするための、下地を作るものだと思っている。

また、プリントp6に他人から「褒められたい」とか「評価されたい」とか、卑俗な欲望を満たすために、勉強してきたのではないか。という文があったが、私は褒められたいという欲望のために勉強するのは、まったく悪いことではないと思う。褒められたいという欲求を満たすことをきっかけとして勉強を始め、受験期でいろいろなものを身につけ、大学で学問というものに入っていくという形でいいのではないかと私は考える。

 

「学問の技法」レポート3                    

                    15040029  中村 圭宏

 前回の授業をうけて今回のレポートでは知性と感性の二分法について書いていく。僕自身は資料にあった「受験勉強を勝ち抜くことで自尊心を鍛えて、知性はそこそこ鍛えられたけれども、文化的・芸術的な感性をおろそかにしてきた」タイプの学生である。というのは、自分から芸術に積極的に触れようとは思わなかったのもあるが、高校の授業であまり扱わなかったということも関係していると思う。僕の高校ではたぶん受験に関係ないという理由で、音楽は一年のときだけで美術に関しては三年間やらなかった。もしあったとしてもおそらくそれらの科目の時間は息抜きにしていたであろう。やはり、より多くの人が感性を養うためには先生が主張するように受験科目に芸術一般に関するものを課さなければならないのだろうか。

 僕の意見では、受験に芸術科目を課すのに反対である。まず、一つ目として、授業で発言していた人もいたが、評価の基準があいまいになりそうであり、客観的な判断ができなさそうであるからである。多くの人が受験し公平をきさなければならない入学試験では上記のものはきつい気がする。また二つ目に、客観な判断ができるように芸術史、音楽史を課した場合、果たして感性が磨かれるのか疑問である。現在でも世界史に文化という項目で芸術史、美術史の分野があるが、結構嫌いな人が多い。なぜなら、ひたすら暗記しなければならないからである。楽しいと感じるからこそ自発的に取り組み芸術に興味を持つと思うが、苦手意識を持って嫌々やるのではあまり意味がないと思う。

 次に大学で「知性」偏重の学習を続けるか、それとも「感性」偏重の教育を受けるかという問題である。僕としてはやはり「知性」偏重の学習を続けていくつもりだ。確かに「感性」偏重のものにも憧れる。しかし、僕は資格を取ること目標としているので感性を磨くのにあまり時間をさくことができない。このままでは、文化的に最低限度の生活をしなければならないが目標のためならしょうがないだろう。知性と感性どちらに重心をおくかはひとそれぞれの判断にならざるを得ないのではないかと思う。専門を極めようと思うならそれに時間を多くかけなければならないだろうし、そうでないなら大学4年間で自分の感性を磨いていけばいいと思う。

 最後に18−24歳までになにをすべきことは何かという項目を見て、改めて自分の目標を達成したいという意欲がでてきた。彼らは偉人と呼ばれている人たちではあるが10代から20代前半で様々なことをやりとげている。彼らのやったことにはまったく及ばないが、自分で決めた目標はやりとげたい。

 

学問のレポート4 読書ついて

15040029  中村 圭宏

 最近忙しさを理由に本を読んでいない。前回の授業を受けてまず思った。大学受験の勉強をしていたころは、現代文の問題などではなく、早く自分の興味のある本を自由に読みたいと思っていたのだが。今回は高校の頃に読書をしていた経験から書く。

 私は以前読書することが嫌いだったが、中3の頃から好きになりだした。姉が貸してくれたミステリー小説がきっかけだった。その小説がとてもおもしろく、その後その作家の小説を読んでいくうちに、気づいたら読書に対する抵抗力がなくなっていた。一回本を読むことに楽しさを感じてしまえば、読書が自然と好きになるというのが私の考えである(最近あまり読書していないが)。本を嫌いな人が多いが、おそらくその人たちの多くが、読書を現代文の試験の問題や読書感想文などの強制されるものと結びつけているのではないかと思う。

 読書することによって、想像力、知識、喜びの3つのことが得られると思う。

 まず、想像力について。新書や専門書などでは微妙ではあるが、小説を読むことによって確実に発達させることができるであろう。活字を読み取り、そこから頭の中で映像化させる。だいたいの人はこの動作を無心の内にやっているので、想像力は自然とみについてくる。

次に知識について。本を読むことによって本当に様々なことに気づかされたり、学んだりすることができる。また、自発的な読書は、自分の興味をかきたてられるので、受身に学ぶ普通の授業で習ったことよりもなかなか忘れづらい。それから、知識に関して、ある程度の読書量をこなしていないと、恥ずかしい思いをすることもあるだろう。例えば、名著と呼ばれるもの読んでいないと大学生としては恥ずかしいかもしれないし、社会にでてからはよりいっそう恥じをかくだろう。恥をかくかかないに関わらず、社会の仕組みや人の生き方を、自分が行動せずに、千、2千のお金でしることは、読書の利点である。

 3つ目の読書の喜びについて。私は本を読むのも好きだが、本を選んでいる時に楽しみを感じる。本を選ぶとき表紙を見たり、少し読んだりして決めることが多いが、よく宣伝用の帯で決めたり、話題の本を買ってしまうこともある。また、私は面白いと感じた本に出会うと、ひたすらその本の著者が書いた本を読むという読書偏重型である。

 読書嫌いの人は、まず何かをきっかけとして(例えば映画化される本であったり、流行っている本を読んでみるなど)、自分の好きな作家をみつけると良いと思う。そうすれば自然と克服できるはず。最近本を読んでない人が言っても説得力ないですが。

 

            学問の技法 レポート5

15040029  中村 圭宏

 今回の部分では様々な読書の仕方、拾い読みやとばし読み、積ん読などを知ることができたことが収穫だった。いつも自分が読書するときは小説と新書を読む時に読むスピードを変えるぐらいで、だいたい同じように読んでいたので、これらの読書方法はとても新鮮だった。確かにいろいろな読み方ができるということは、スポーツ競技にたとえると、攻め方の戦術を多く知っているようなものであるので、単調にならず途中で挫折することもないだろう。個人的には積ん読にとても興味を持った。机の上に本を置いておくだけで、読書的に価値があるということが面白い。ようはいかに読書に対しての苦手意識を消すことができるかが重要なのであろう。

 また、これから大学生として学問をしていくうえで、学問のための読書について考えるためにも、今回の部分は役に立った。私は、今回の講義を受けるまで、読書を普通の娯楽のための読書と学問のための読書の仕方を区別せずに考えていた。今までは、読み終えた後に余情に浸り感慨にふけったりする小説などとは違う、新書などを読む行為が学問のための読書だとばかり思っていた。だから、新書などを読んだ後に、自分では勉強した気分になり、一人達成感に浸っていた。

しかし、今回のレジュメには、「学問のための読書というのは、読んで満足するのが目的なのではなく、読んだらそこから思考を開始することが目的となる」と書いてあった。本を読み終えることがゴールのように感じていたわたしにとっては、このことに気づかされるということは、とても意義深いものだった。

確かに、読書すること自体が目的となっては、せっかく読書したという行為が単発におわってしまいもったいない。考えてみると読書したということは、自分の知らなかったことを知ることであり、その知ったことに対して自分なりに考えたり、誰かと議論を交わす機会を得たということである。読書をしてそこから思考を膨らませることが重要なのだ。

また、それを実行するためにも、読んだら次の本を読む前に、その本について感想や批評を書いてみることが大切だと書いてあった。というのは、そうすることで、本の内容が頭の中で反復され、思考が刺激されるだけでなく、その内容がいっそう記憶に残るからだそうだ。

 私が思うに、これからの大学での学問を成功させるために、私たち大学一年生がやるべきことは、多読し、読書をきっかけとして思考力を高めることだと思う。そのためにも、拾い読み、とばし読み、積読をして、できるだけ多くの本に触れていかなければならない。

 

学問の技法レポート6      

15040029  中村 圭宏 

学問の技法の授業では、毎回各自自分の書いたレポートを持ち寄り、30分程の議論が行われている。この議論では、内容によっては盛り上がることがあるが、たまに議論に行き詰ることがある。なぜ行き詰るのか。私はよく、他人の意見を聞いて、こんな意見もあるのかと納得するだけで終わってしまうことがある。おそらく今回の部分にあった、意見をでっち上げるということをやっていないからであろう。また、自分の中に意見が沸いてこないことを理由に、多少他人まかせにしてしまうことがあるのも理由だろう。授業中の先生が何か意見はないかと聞いた時、あまりみんな手を上げないことから判断して、結構みんなにあてはまることかもしれその意見に対して反論され、それに返答できないのをおそれているからではないか。

 では、議論に行き詰ることなく、継続させていくにはどうすべきか。まずは、各自が自分の考えをしっかり持つことが重要であろう。反論にも絶えられる自分の考えを持つためにその分野に関する知識がなければ、考えが中身の乏しいものになってしまうし、説得力を欠いてしまう。そうならならないためにも、さまざまなところから情報を得る情報力が必要になると思う。現在では情報に困ることはない、自分から欲せば、本や新聞、または、テレビなどによっていくらでも手に入る。そこから、絶えず、情報を吸収することが、議論の場での自分の考えの形成に役立つだろう。
 また、やはり、議論することになれることが重要だろう。大学では議論する場は結構ある。この授業もそうだし、ディベート形式の英語の授業、部活のミーティングなど。また、議論の材料はテレビをつければ、現在では年金問題や参院選、イラク問題などすぐに手に入るわけだから、やろうと思えば仲のいい友達ともできる。機会はあるわけだからあとは自分がいかに意欲的、積極的に参加するかである。議論に慣れさえすれば、資料にもあったように、議論の際のテクニックなど身につき、議論に対する抵抗力はなくなるのではないか。
 日本人は欧米人に比べて議論が苦手だといわれているが、その日本であっても現在では議論する力が以前以上に必要とされている。会社においても、政治の場においても議論する力がなければやっていけないのが現状である。そういう時代を生きていくためにも、大学時代のうちに多くの議論を体験しておきたい。
 最後になったが、資料の議論を継続できるための作法という項目で、「議論を続けるためには、お互いの意見が一致しない点を探そう。」とあった。確かに、議論の力をつけるためや様々な意見が出る点では有効かもしれないが、何かを決定する際の議論、例えば、会社の会議や国家間の話し合いの場では、互いに共通点を見つけたり、歩み寄ったりすることも大切なのではないかと思った。

 

学問の技法への批判と追加

                          15040029 中村 圭宏

@大学改革案について

今回の大学改革案のシステムは、確かに、大学に入ってから勉強しなくなるという現在の状況を変えることができるかもしれない。大学卒業の資格を得るために、三年進級資格のために大学入学後も勉強を続けなければならないし、また、ローンをくんで自立して大学に通うため、お金を払って授業を受けていることを意識して、一回一回の授業を大切にして、サボることも少なくなるだろう。

 しかし、いくつか気になる点もあった。まず一つ目として、三年次進学資格が一、二年の自己発見期の活動を妨げはしないかということだ。三年次進級の時に、現在の二次試験にあたる試験をやる目的は、今より多くの人に大学入学の機会を与え、一、二年の時に留学したり、官庁や企業で働いている人の話を聞くなど、様々な経験を積み自己を発見するためのはずである。現状のシステムのままで、高卒の人や進学を目的にしない人にとっては、実際今までより多様な経験ができるだろう。だが、進学を目指している人にとっては、1,2年の間は三年次進級資格を意識した勉強内容となってくる。もし、三年時進級資格を取る試験が歴史や数学などであれば、1、2の間の勉強が現在の大学受験の延長になり、受験科目に限定した勉強になってしまう。そうなってくると、受験科目以外の自分の興味のあるものに時間を割くことがあまりできなくなるのではないだろうか。留学やOJTなどの経験ができずに、受験勉強ばかりしていては、自己発見期間という趣旨にあわないのではないかと思う。

 二つ目として予備校教師を外部から呼ぶということだ。先生は予備校教師を呼ぶ理由を、質の高い授業をするからと言い、質の高い授業をするのは予備校教師が実績を上げれば、高い給与をもらえる年俸制だからと言っていた。それならば、国立大学の先生も年俸制にすれば、意欲が高まり質の高い授業が実現するのではないだろうか。確かに予備校の講師はわかりやすい授業をするが、大学にも優秀な先生方がそろっているはずである。現状のままでも学生に対して良い授業をしてくれる先生もいる。そういった先生を評価するためにも、また、そうではない先生の意欲を高めるためにも、年俸制は良い制度ではないかと思う。

Ap4「学問するためには、なにも学者である必要はない」とあるが、確かに必要はないと思うが、実際のところサラリーマンなどの職業では残業などで暇な時間が作れないというのが現実である。それに対して学者は、授業中の先生の話からすると、常時大学にくる必要もなく、自分で自由に使うことができる時間を大量に持つことができる。このことから、学問するためには学者である必要がないが、学問することのできる職業は限られてくるので、学者であることが望ましいのである。

Bp5「勉強は仕事である」というのは、p2にある勉強はあらかじめ確定した答えをいかに速く正確に導くかというゲームということに反すると思う。実際、勉強は義務的なところがあるが、一方で数学のように遊び的な要素もあるので、単純に勉強は仕事であるというのはおかしい。

Cp5「学問は、自宅やキャンパスといった場所に隔離された活動であり、経済や政治といった社会の現実からあまり影響を受けずに営まれている」法人化された国立大学や私立大学では、決して経済の影響を受けないということはないだろう。景気が悪いときは、家計が苦しいために、私立大学を避ける傾向にあるだろうし、また、国立大学でもこれからは、利益を出していかなければならないだろうし、少子化の影響も出てくるのだから、学生を引き付けるための特色ある教育や研究などを提供していかなければならない。また、少し話しはそれるが、以前ある本で見たのだが、企業から見て期待できる大学ランキングがあった。(北大はその中で24,5位であった)大学側は経済などの社会の現実からあまり影響をうけていないといってばかりいるのではなく、このように、大学の外から絶えず評価されているということを自覚しなければならない。

Dp6「学問の邪道をばかにすることはできない。辞典や用語解説書などを読むことは、多くの邪道の中でも、最もすぐれた道であるだろう」先生の定義する学問とは新しい問いを発することということからすると、解説的知識で済ませることは学問というのであろうか。ある人があらかじめまとめたものを見て、学ぶという行為はどちらかというとこの行為は勉強に入ると思う。

Ep8「中身のないプライドは捨てよう」とある。確かに何かを学ぶうえでプライドは邪魔になることがあるかもしれない。しかし、中身のないプライドでも、持っていないよりはましであると思う。虚構のプライドを持ち続けて、自分が恥ずかしくならない人はいないだろう。恥ずかしくなり、そのプライドを早く中身のあるプライドにしようと努力するはずである。もしそのプライドさえもっていなかったら、どうせ自分はだめだから何もしなくていいやという気持ちになってしまうだろう。これは、p21の「スノッブになろう」のところに関係すると思う。スノッブになるということは見栄を張ることだと書いてあったが、中身のないプライドと見栄を張ることはどう違うのであろうかということが疑問に思った。

Fp9「学問に快楽を感じない人ほど、学問に打ち込む傾向がある」p5で学問はむしろ遊びである。遊びの中の遊び、遊びを極めた遊びであるといってもよいといっているが、学問をすることに耐え、快楽を感じないのであれば、もはや学問は遊びとはいえないのではないか。

Gp13学問のタイプ分類「F社会派。学んだことを社会の中で生かそうと考えているタイプ」これは、p5にあった学問は実益を生まない非生産的活動であるということに矛盾するのではないか。学んだことを社会の中で生かそうとするのは、生産的活動であると思う。

Hp16「一流大学の学生と二流〜三流大学の学生との違いは、背筋力と腹筋力にあるのではないか」とある。確かに両者の違いは集中力にあると思う。はたしてそれが原因だろうか。背筋力と腹筋力を鍛えただけで両者の差は縮まるのか。二流〜三流大学の学生の中にも、というか一流大学の学生と同じくらいは背筋と腹筋が鍛えられている学生がいるだろう。また、また、外見から判断してほとんど運動をしていないような筋肉がついてない体なのに頭がいい人はよく見かける。これらのことにより、この考えには賛成できない。

また、その少し上に「精神的な、持続力のある背筋力」とあるが、精神的な背筋力というのは少し変な気がする。

それから、持続可能な集中力をつけるためにも、大学時代にスポーツなどのサークルに入ることを勧める文を入れたほうがいいと思う。私は大学時代には大学時代にしかできないことをすべきだと思っている。よくアルバイトなどを一生懸命やる人がいる。金銭的な面から、やらなければ生活できない人は別として、結構遊ぶお金のためにやっている人も多い。アルバイトから学ぶこともあるという意見もあると思う。しかし、仕事はこれからもできるが、大学生活のサークル活動というのは、この4年間しかできない。実際サークル活動に打ち込むことによって、集中力がつくと思うし、人間的成長を得られると思う。

Ip26知性と感性の二分法のところについて。私の意見では、受験に芸術科目を課すのに反対である。まず、一つ目として、授業で発言していた人もいたが、評価の基準があいまいになりそうであり、客観的な判断ができなさそうであるからである。多くの人が受験し公平をきさなければならない入学試験では上記のものはきつい気がする。また二つ目に、客観な判断ができるように芸術史、音楽史を課した場合、果たして感性が磨かれるのか疑問である。現在でも世界史に文化という項目で芸術史、美術史の分野があるが、結構嫌いな人が多い。なぜなら、ひたすら暗記しなければならないからである。楽しいと感じるからこそ自発的に取り組み芸術に興味を持つと思うが、苦手意識を持って嫌々やるのではあまり意味がないと思う。

 次に大学で「知性」偏重の学習を続けるか、それとも「感性」偏重の教育を受けるかという問題である。私としてはやはり「知性」偏重の学習を続けていくつもりだ。確かに「感性」偏重のものにも憧れる。しかし、私は資格を取ること目標としているので感性を磨くのにあまり時間をさくことができない。このままでは、文化的に最低限度の生活をしなければならないが目標のためならしょうがないだろう。知性と感性どちらに重心をおくかはひとそれぞれの判断にならざるを得ないのではないかと思う。専門を極めようと思うならそれに時間を多くかけなければならないだろうし、そうでないなら大学4年間で自分の感性を磨いていけばいいと思う。

Jp31情報友達を作るというところで「インターネットから得られる情報は味気ない」とある。本当にインターネットから得られる情報は味気ないものだろうか、いや、そんなことはないだろう。まず、インターネット上では普通のメディアが伝えないようなリアルな情報を得ることができる。例えば、何かの本に書いてあったのだが、よくNHKは公平にニュースを報道するといわれているが、実際のところ違う。少し前まで盛んにイラクの情勢が報道されている時、よくイラクの市民が戦争に巻き込まれて怪我を負っている姿などの映像が流れていたが、そのニュースの時アナウンサーは決してアメリカのせいだとは言わず、アメリカが悪いとは決していわない。これは、NHKの報道が政府側だということを表している。このように普通のメディアでは伝えないようなことも、インターネット上では、フリーのジャーナリストが現地で取材をし、情報流しているので、そこから私たちリアルな情報を手に入れることができるのだ。このような手段を味気ないとはいえないだろう。

Kp33「本の買い方にはコツがある。まず、新刊本にはとびつかないという原則がある」これは、読書に慣れている人へのアドバイスであろう。読書に慣れていない人にはこれは当てはまらないだろう。読書になれていない人は、逆に古典などではなく、映画化される本や世間で話題になっている本を読むべきだ。初めから古典や難しめの本を読んで、挫折し、読書への抵抗感を作るよりは、たとえ駄作にあってしまうリスクがあっても、読みやすい本を読んで読書することの楽しさを覚えることの方が大事だと考える。

 

◎今回は学問の技法への批判ということであったので、思うところを箇条書きのように書いていってしまい前後の脈絡がなくなってしまった。批判しろという指示であったので批判したが、原稿、講義合わせてこの学問の技法は私にとってためになった。特に次の二つのことについてそれがいえる。まず、大学に入ってからとまっていた本を読むという習慣が復活したこと。それと、いくらかはレポートを書くことに慣れたことだ。自分の中で古本屋のあの独特の雰囲気はとても大きかった。あの雰囲気に触発され本を読み出したといってもいい。また、毎回期日に迫られてレポートを書く内に1,200字のレポートへの抵抗感がなくなった。この講義は、毎回レポート、古本屋めぐり、古本10冊購入など結構やるべき課題は多かったが、終わってみて振り返ってみるとすべてこれから大学での学問を充実させていく上で必要なことばかりであった。この講義が終わって、せっかく少し身に付けた学問の技法を無駄にしないためにも、後期も課題の多いものを履修しこの学問の技法を磨いていきたい。

 

 

 

 

斎藤崇広 学問の技法

 

学問の技法1

 最近言われているゆとり教育を支持するわけではないが、自分は選抜システムの段階化には賛成しかねる点がある。学力低下は嘆かわしいことであるが、この方法だと、まず入学資格を得ることにさほど重要な意義を見出せない。誰でも入れる(とまで言うと語弊があるが)入学試験に魅力を感じるだろうか?入学資格を手に入れて新しい大学という今までとは違った世界が開ける、と思ったら学校が変わっただけでやる内容は高校に毛が生えた程度(ここまで言うのも考え物ではあるが)では大学1、2年に魅力を感じない。教養を学ぶのは魅力的なことではあるかもしれないが、3年次進級資格が教養を身につける邪魔になっている気がする。下手をしたら留年する可能性もあるのだ、教養を身につけるために1年をつぶせる覚悟が今の日本人にあるだろうか?人生80年とはいっても18年程度しか生きていない若者に1年をつぶす覚悟はないだろう(もちろんこれは今の日本人の考え方を例示しているつもりであって、この方法で成功しているアメリカでのアメリカ人の考え方に基づいているわけではない。もし日本でこの方法を成功させたいならば、日本人の根底の考え方を変えなければ駄目なのかもしれない)。大学1、2年に魅力を感じないなら当然3年次進級資格を得ようとするだろう。ここで頭のいい人なら18歳で大学34年の勉強ができてしまうわけである。それはそれでいいことかもしれないがいろいろな経験を積むという本来の目的から逸脱したものになるだろう。また、奨学生の場合、就職に有利、という話もありましたがあれはますます学歴社会主義を推奨することになると思われる。『奨学生』だから仕事ができるというわけでは全くない。つまり、根本的な解決にはならないということである。さて、私は冒頭で学力低下の話にほんの少しだけ触れたがこのことについても少し意見がある。仮に大学が選抜システムの段階化を取り入れたとして学力低下は抑えられるか?答えはNOであろう。学力低下の根本的問題はもっと下、つまり小学校中学校、ないしは高校での学習にあるだろう。つまるところ、日本の教育制度が根本的に変わらないといけないと思う。私は今のところ選抜システムの段階化について否定的な意見ばかり述べてきたがすばらしいと思うところも多々ある。努力した人が報われるというのはそれだけで説得力のある話であるし、今の日本の教育制度が変われば選抜システムの段階化も意義が出てくるし、なにより今の大学生活を送るよりも、ずっと密度の濃い、意味のある大学生活になると思われる。しかし、大学生活というのはさまざまな経験をする場所でもあるわけだから、サークル等にも時間が取りたいわけだ。とりあえず今までのところをまとめると選抜システムの段階化に反対の理由は

1,いろいろな経験をするという本来の目的から外れる恐れがある。

2,アメリカと日本での考え方の違いがある。

3,学力低下、学歴社会主義などの問題が解決するわけではない。

この三つである。とりあえず新しい案を思いつくまでの間は。

 

学問の技法2

                       25040339 斎藤 崇広

 今回、講義を聴いたりプリントを見たりして思ったのだが、学問と勉強の違いというものが今ひとつわからなくなった。プリントには『勉強とはある問いに対する答えを学ぶことであるのに対して、学問とは答えの確定していない新たな問いを発すること』と書いてあるが、今ひとつピンとこない。もし学問が「強制されない活動」、「隔離された活動」、「未確定の活動」、「非生産的活動」、「ルールに基づく活動」、そして「虚構の活動」であるのならば(しかしこの定義にのっとって考えると本当に学問をしているといえるのはかなり少数の人たちに限られるのではないかと思われるのだが・・・・)、私には学問と勉強の境界というものは非常に不鮮明なのではないかとも思う。なぜなら、勉強というものが、学問以外のものであると考えると、いわゆる「受験勉強」などの言葉によってぼかされてしまってはいるが、本を読んだり、歴史を学んだり、その他もろもろの事も、勉強といえるのではないかと考えられるからである。つまり学問と勉強は対極にあるものではなく、むしろ非常に関係が深いのではないだろうか。そして、学問をするための基礎、ないしは次の学問につなげるために必要なものが勉強なのではないか。もしそうなら、自分としては、学問をすることと同じくらいに勉強(これは受験勉強などのようなことではない。確かにそれも大事ではあるが、この場合は教養を身につけることを言う)を薦めるべきではないか?たとえば、プリントにも載っていたように、辞書を引いたりするという行為である。プリントでは、それは薦められるべき学問の邪道であると定義していたが、むしろその邪道こそが広い意味での勉強といえるのかもしれない。そう考えると一年次にやる北大の教養科目はかなり意義のあることだと思う。そう考えなくても意義のあることだと思う。『受験勉強』というフィルターにぼかされてはいるが、やはり勉強というものは非常に重要なものであると再認識させられた。そしてさらに学問という高みに上っていくために日々精進すべきだなぁ、などと偉そうに終わらせるのはどうかと思う・・・・が、これで終わりです。

(話は変わるが、学問というものが上記、ないしはプリントに書いてあった通りのものであるとすると、前回の、三年次進級試験の推奨という意見と衝突するのではないだろうか?三年次進級試験とは、いわゆる受験勉強で、詰め込み教育とそう大差ないものであると予想される。もしそうなら、大学1、2年で学問というものに触れているひまなどないような気もする。それでも学問を薦めるというのであればどちらかがうまく機能しなくなるだろう、いや、まず間違いなく学問のほうを後回しにするものと思われる。将来役に立つほうを考えるとそうなるだろう。前回の補足になりますがなんとなく気になったので入れてみました)

 

学問の技法3

                      25040339 斎藤 崇広

前回の講義で気になった点をまとめます。まず、人生のモデルを見つけようという点です。私はこの意見に基本的に賛成です。他人の生き方から得るものは大きいし、また、他人の生き方に触れることで新しいことを発見することもあるだろう。私が気になったのは司馬遼太郎やニーチェなどの例だ。書いてある文章を読むと、その人が一人の偉人のみに入れ込んでいるような印象を受ける。私は一人の偉人のみの意見や生き方に感化され過ぎるのはあまりよくないことだと思う。偏った見方しかできないと偏った意見しか出せない。私はむしろさまざまな人の意見を取り入れるべきだと思う。それはソクラテスでも司馬遷でも友人の竹田さんでも三丁目の磯部さんでもあるいは愚者であってもかまわないと思う。その人がどんな人であれ、その人を観察したり調べたりすることで自分にとって何かしらのプラスにはなっていると思われる。

 次は、『大衆批判』についてです。これはオルテガとハイデガーが定義したらしいのですがずいぶんとアバウトな定義だと思う。むしろ自分の理想を掲げたものだといってもいいかもしれない。しかし、大衆批判とはそういうものなのかもしれない。私は大衆を抜け出た人などほとんどいないと思う。むしろいないと言い切ってもいいのではないだろうか?仮に周りに偉人だといわれている人に大衆批判の定義を立ててもらうとしよう。するとその人は自分の理想を大衆を抜け出た人の中に定義するだろう。そして自分は大衆の一部だと定義するのではないだろうか?しかし、そうするからこそこの大衆批判派意味があるのであり少しでも自分を理想に近づけ、自分を高めようとするのだろう。

 最後は、知性と感性の二分法についてである。これの批判について、挑発的ではあるが意見を述べたい。二番目の議論についてだが、『あなたは自分の感性を信じているだろうか。自分の感性に従えば、何がうまくいくのだろうか。それは独断主義に陥らないだろうか。』とあるが、音楽を聴いたり美術に触れたりすると自分の感性を信じられるようになるのであろうか?それはただの勘違いに過ぎないのではないだろうか?と問い返したい。また、「美術」と「音楽」を試験に組み込んだとしても今の受験戦争の姿を見ていると文化的なはずの「美術」や「音楽」も知性を鍛えるという行為と変わらないで取り組むのではないだろうか。必死になってバイオリンを弾いたりして鍛えられたのは感性ではなく指の力だけ、音の流れなどは模範の演奏そっくりに真似ただけ、といったことに陥らないとも言い切れない。試験にしたとしてもそう大きなメリットはないかもしれない。だからこそ授業に音楽や美術などの教科が組み込まれているわけで・・・・。そもそも勉強にしろ学問にしろ音楽にしろいやいやながらにやっても自身が高まるはずがない。

 と、いろいろ書いてみたが読み返すと私の意見も偏っているなぁと思う。人の振り見て我が振り直せ、とあるが自分の振りを見ても直すところはあるもんだ。自分を客観的に見るのもいいことなのだろうな。

 

学問の技法4

プリントを読んでいくつか思ったところをちまちまと書いていこうと思います。

小学校、中学校、高校、そして大学と、私がいままでしてきたほとんどの読書が娯楽のためにしてきたもので、生き方を変える、教養を身につけるなどとはあまり考えなかった。そもそもどうやれば生き方が変わり、教養が身につくのか、まったくわからなかった。いまもわからない(それに私は知識を身につけるということは期待しているが読書をすることに対して生き方を変えるという期待は持っていない)。

プリントの中にあった、「なぜ読書をするのか?」というのは、昔から気になっていたが、プリントの中にあったその問いの答えは私にとってあまり納得のいくものではなかった。やはり、娯楽のため、具体的な実践目的のためというのが一番しっくり来る。まあ教養のためというのも理解できる。が、生き方を変えるというのがピンとこない。それは自伝などを呼んで生き方を参考にすることなのだろうか?生き方を変える必要性に迫られるのはどういうときなのか?またどのように変える必要性に迫られるのか?といったことの具体的な例を出してほしかった。

 

私は、実際のところ、本は読みたいがどんな本を読んでいいのかわからない、というのが現状である。本を読むのに抵抗はそうないので、薦められれば読みたいが、薦めてくれる人もいないので、ぜひこの講義でプリントの中に書いてあった優れた読書リストのサンプルを配ってほしいと思った(特定のジャンルのものではなく小説、エッセイ、学術書、美術書、歴史書等々ジャンル問わないで)。

私は札幌に来て、初めていわゆるところの『古本屋』にであった。堅苦しそうな外見は入りづらい印象があり、そのまま素通りしてしまったが、私がたまに行く古本屋とはまったく違う雰囲気だった。私は『古本屋』にはいったことがないので、どんな本が売っているのかわからないが、ぜひ一度入ってみたいと思う。

・一応まとめてみたりする

 最近まで忙しくて読書なんてしてる暇がなかったが、ようやく暇になったのでプリントに書いてあったような読書の仕方を試してみようと思う。さて、じゃあまずは『古本屋』にいってみようかな。

 

学問の技法5

前回の講義についての感想をいくつかに分けて書きます

 本の読み方について書かれていたが、自分はまだその方法を試す時期にはいないと思う。そもそも、今も昔も自分はあまり本を読んでいないので、こういうことに口を出す資格(そんなものがあるのかは知らないが)がないと思う。自分は、本は娯楽のために読むものだと思っているので、たいそうな自分を変えるだの来るべきときに備えて読書をするだのはまだ考えていない。これからそう思うためには、もっと多くの本を読まなくてはならないだろう。

『本に関する名言集』に出てくる言葉はあまり好きな言葉ではなかった。上にも書いたが読書を娯楽のためにすると考えているからだろう。自分には名言を言っている彼らが意味もなく偉そうなことをいっている気がする。たとえは悪いが読書のところを麻薬と置き換えても通じてしまうあたりが・・・・(ほんとにたとえが悪い・・・・)。ただ単に自分が読書の良さをわかっていないだけだとは思うが・・・・。

速読については聞いたことがあるが、あまり早すぎてもつまらないような気もする。速読検定一級をとってもそんなに早いと読書を楽しむまもなく読み終わってしまうだろう。一時間に一冊くらいが自分にはちょうどよさそうな気がする。とりあえずそのくらいになれるようにがんばりたい。

 プリントを読んでこれからいろいろな多読の仕方を試してみようと思った。数冊を同時に読むのと積読してみたり理解せずに大量に読んだりするのは自分にも無理せずできそうな気がする。ほかにも何か別のことをやりながら本を読んだりするのもリラックスしたまま本が読めていいかもしれない。前の講義のときにあった授業を聞きながら二冊の本を同時に読むというのも面白いかもしれない。

・とりあえずまとめ

 またしても煩雑な文章になった気がする。プリントの内容を批判してほしいとはいったが批判しにくい文章だった気がする。これからはテーマを絞って書いたほうがよさそうだと思った。

 

学問の技法6

 毎回講義でもらうプリントを見て思うのだが、プリントを読むと今まで自分が気づかなかったことに気づかされる。あるいは、気づいてはいたがなんとなく無視していた事柄を発見できる。自分は人との対話が苦手なほうなので今回のような論争術、ないしは議論、対話の仕方はかなり参考になった。

 自分が今まで見てきた人の中で対話が上手な人というのはまず何よりも初めて会う人とも物怖じせず普通に話しにいける、というのが何よりも大きいだろう。一般的に西洋人(ないしは日本以外の国の人々もそうかもしれないが、ここでは一応西洋人としておく)は対神恐怖があり、日本人は対人恐怖があるという風に言われている。西洋人は神に対する畏敬の念が強く、神をないがしろにすることなどとてもできはしないが、日本人は確かにかつては踏み絵などをやったりして神に対する畏敬の念は強かったように思われるが(あまり良いたとえではないと思う。そもそもあれは一部のキリスト教の人々だけだから日本人全体がそうであったわけではない)今では、昔よりも多くの人々が神に対して尊敬ないしは恐れというものを持っていないように思われる。反対に西洋人たちは人と話すことに対する恐怖というのは個人差はあるにせよあまりないようだ。彼らは普段からパーティーなどの社交的な場所を設けているからだろう。逆に日本人はこれも個人差はあるにせよ人と話すことが苦手なようである。昔の鎖国時代からの伝統を受け継いでいるからだと思われる。

 しかし、自分は確かに人と話すのが苦手だがそれは別に初めての人と話すのが苦手だからではなく話す話題がないからだろう(たぶん。しかしこれはどの人も同じだと思う。そしてこのことが人と話すのが苦手ということなのかもしれないが・・・・)。つまり今回のプリントの中に一部あったような対話術を身に着ければ何とかなりそうな気もする。『学問の技法』の中では読書術をメインに扱うようだが対話術ももっと取り上げてほしいと思う。むしろ、今の日本人に必要なのは対話術だろう。プリントの中の質問の作法というのはぜひ身につけたい事柄である。人の話をよく聞いて、質問して相手からうまく返事を引き出せる人は対人関係がよさそうに思える(ただしこれは必要十分ではない)。

 二月ほど生活してみて思ったのだが大学というのは友人を増やすのは自分しだいな気がする。高校のように毎回同じ授業をクラスの人と受けるわけではないし、クラスの人数も5〜60人と多い。友人を増やす気になればいくらでも増やせるし増やす気がなければ全く増えないだろう。大学の中で対話術というのを身に着けるべきだと思う。

やはり人間は特殊な生き物だと思う。ほかの動物はこんなことを考えないし考えようとも思わないだろう。自分たちは考えられるのだから、そのことを生かしていい対人関係を作らないともったいないと思った。

 

学問の技法 おすすめの本

 自分は今まで偏った本の読み方をしていたと思う。だから、自分の生き方を変える本というのは出会ったこともないし、自分の生き方を変えるために本を読んだこともない。だからこれから挙げる三冊に自分の人生を変えようなどという気合と気迫を持って望むのはよくない(そもそも気合と気迫を持っていても自分は変えられないだろう)。しかし、私の読む本は偏ってはいたが、ここに挙げる本はそれほど偏ってはいないと思う(ある意味では変に偏っているといえるかもしれないが・・・・)。

 

 一冊目はマークトウェインの『人間とは何か』です。マークトウェインは『トムソーヤ』を書いたことで有名ですがトムソーヤのほうのマークトウェインを知っている人は結構衝撃でしょう。この本は一人の老人と一人の若者の対話形式で話が進んでいきます。作者のペシミスティックな世界観が人生に幻滅している老人の意見によくあらわれています。老人の意見と若者の意見、どちらにも納得させられるところがあって他人の意見を素直に流せる人には読むに値する本だと思います。人生を変える、というところまではいきませんがいろいろなものの見方を知る、という点ではなかなか面白い本です。芝居がかった表現も多くありますが対話形式の話なんで読みやすいかと思います。

 

 二冊目は広瀬隆の『東京に原発を!』です。日本と欧米の原発に対する意識の違い、過去の日本人の原発に対する取り組みなどが詳しく書かれています。ほかにも、原発の仕組み、いかに安全に廃棄物を処理するか、東京に原発を建てるとどのようなメリットがあるか、なども書かれてあり、原子力発電所についてのいろいろな知識を得ることができます。私はそんなに安全で便利だというのなら東京に作ればいいじゃないか。新宿西口に建ててみたらどうだ!過疎の浜の人は死んでも仕方ないというのか。」という昔の日本の原発への認識の低さや上の役人たちへの批判を込めたこの言葉は印象的でした。15年以上前にかかれた本ですが今でも通用すると思います。

 

 三冊目は『小林宏明のGUN講座−ミステリーが語る銃の世界』です。この本は日本でわれわれが使う機会はまったくない銃についての解説が載っています。しかし、この著者が海外のミステリーの翻訳家なので実際の使用や手入れなどよりもミステリーを読んだときに登場人物が持っている銃がどのようなものであるかということの解説が多いです。また、初心者にもわかりやすいです。無理には薦めませんが無駄な知識を増やしたい人は読んでみてもいいかと思います。別にこの本でなくてもいいのですが、自分を高めるという意味ではどうでもいい知識も必要なのではないでしょうか。

 

古本屋めぐり

                    25040339    斎藤 崇広

古本屋めぐり。一軒目、南陽堂書店。いかにも『古本屋』、といった風貌を持った店。なんとなく威圧されながら中へ入る。うん、普通の本屋だ。少し安心。おくには店員二人。暇そうに本を読んでいる。それにしても長細いつくりだと思う。別にどうでもいいけど。入り口のすぐそばに文庫本のコーナーがあった。どうやら『古本屋』は文庫が少ないようだ。大きい本棚二つ分ほどしかスペースが用意されていない。いろいろと眺めてみること数十分、結局ソポクレスの『オイディプス王』と、高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人』を買った。前者は単に自分が演劇が好きだから、後者は自分の思っていた『古本屋』に似つかわしくない本だったから。なんとなく自分は古本屋に対して変なイメージを持っていたようだ。学術書や難しそうな本ばかり置いていて(実際そうであろうが)大衆受けする本は置いていないだろう、と思っていた。どうやらそうではないようだ(そういった面もないわけではないが・・・・)。店員の態度も普通だったし(あたりまえであるが)。ところで『オイディプス王』、カバーがついてないぞ。そういう仕様なのか?昔の本はそうだったのかもな。

二軒目、サッポロ堂書店。営業してるんだか営業していないんだかわからない見た目と、人を寄せ付けないただならぬオーラを感じた。かなり入りづらい。けど入る。なんとなく昔よく行ったプラモデル屋を思い出した。特に何も買わずに出てきた。

三軒目、いしまる書店に行った。こっちはまあ普通そうだ。中に入ると古本が所狭しと置いてあり、古本が高く積み上げられていた。ここでも文庫のコーナーは少ない。いろいろ見た挙句、ランボオの『地獄の季節』、モーパッサンの『脂肪の塊・テリエ館』と、マックス・ウェーバーの『職業としての学問』を選んだ。なんとなくタイトルと中身で選んでみたが、後で著者を見るとマックス・ウェーバーさんですか。そんな有名な人が書いていたのか。本を探していたときに、この本屋で表紙の文字が右から書かれた文庫を発見した。今読むと『庫文波岩』と読める。出版年を見ると昭和11年。第二次世界大戦が始まる前。そう思うと買っておけばよかった。けど難しすぎて買っても読まないよなあ。

次、弘南堂書店。けっこうモダンな雰囲気(って死語か・・・・)。今まで見てきた『古本屋』と比べるとかなり広い。けどやっぱり文庫のコーナーは狭い。奥のほうでじいさんが新聞読んでた。ここは若い人も結構来てる。年寄りも来てる。今まで見てきた本屋と変わらないが、どこの本屋も岩波文庫が多い気がする。そして文庫は店の出入り口付近においてある。ここもそう。ジャン・ラーシヌの『フェードル』、ショウペンハウエルの『自殺について』を買う。

最後、BOOK・OFF。自分がよく行く古本屋。『古本屋』とは明らかに違う。漫画もある、CDもある、DVDもゲームもある。店内も明るい。やっぱり差を実感する。本棚に目を向けても明らかにおいてあるジャンルが違う。105円のコーナーに岩波文庫が5冊しか置いてない。何だこの差は。大衆文化だなあと思う。けどまあ一応見てみる。出版者が絞られてると選びにくい。そういえばいままで新潮文庫と岩波文庫しか買っていないことに気づく。なんとなくほかの二つの会社のも買っておきたい。結局志賀直哉の『小僧の神様・城の崎にて』と、潮木守一の『アメリカの大学』、野村ヒロシの『グリム童話』、スティーブン・キングの『グリーン・マイル』を買った。これで10冊。と思ったら11冊だった。なるほど、いしまる書店で三冊買ってあったんじゃないか。納得。まあいいや。ここでさっき買ったランボオの『地獄の季節』があった。あれ、カバーがついてるぞ。・・・ま、そういうもんなんだろう。ほかに『ヤクザに学ぶ交渉術』というのがあったから買ってみた。自分会話苦手ですから。って会話と交渉は違うよな・・・・。それから友人に薦められた稲中卓球部を5冊買った。どうやら先生のお薦めの本の中にも入っているらしい。あとで確認してみよう。本日の合計は11冊で3000円くらい。当初は1000円くらいで買えるだろうと思っていたので3倍ですよ奥さん。物価高いわねぇ。

古本やめぐり終了。終わってみた感想としてはなんか普通だった。古本屋と『古本屋』の両方を見に行ったのは自分でもよかったと思う。同じ古本屋でも明らかにターゲットにしている人が違う。今回いろいろ見て改めて北大はいい立地条件だと思う。コンビニもスーパーも地下鉄も古本屋も居酒屋もデパートもいろいろある。しかも北大広いし。大事にしないと、せっかく北大来たんだしね。

 

学問の技法 4000字レポート

                     学生番号25040339  斎藤 崇広

 『学問の技法』は大きく分けて9つの章?に分かれていた。そこで、いくつかの章を取り上げて(毎回の講義で言っていたことも取り上げて)批判や付け足しをしていこうと思う。

 まずは、三番目の『知的生活人になるために』から行きたいと思う。ここでは知的生活人になるための方法や、自己否定度チェック、人生モデル、大衆批判などが書かれている。個人的な意見で申し訳ないが、自分は理系の人間で、なるべく理論的に裏づけがなされた事柄を信じようと思っているので、自己否定度チェックや大衆批判などはあまり信用できない。それらは一個人(たとえそれが過去の偉人が考えたことであっても)が考えたものであって、私自身がそれに納得できるわけではない。もちろん自分は無知なので専門家の意見に適うはずはないのだが、盲目的には信じるということはしたくない。自己否定度チェックも大衆批判もその時代背景にのっとったものであり、今の現代に必ずしも当てはまるわけではなく、またそれが正解であるとも限らない。この設問のきちんとした裏づけ(根拠)を取って引用?したのならば良いが、そうでないならあまり載せるべき事柄ではないように思う。それからこの章の最後に18〜24歳までにすべきことは何か、と書かれているが、その間にそういったことをしたからといってなんなのか、ただすごいだけではないか。自分は自分であって他人でないのだし、大器晩成という言葉もあるし、その人その人に合った時期というのを見極められるようにすることのほうがはるかに大切なのではないだろうか。(しかしながらこれはただの逃げかもしれない。確かに高みを目指すのはいいことだしその時期にこれだけのことができれば、その後でさらに成長したときに更なる高みへと上れるのかもしれない。しかしあまりあせるのも良くないとは思うがどうなのだろう)

 次は四番目『情報収集力という教養』について付け加えたい。ここでは本についての情報が多いが、私はさらにインターネットからの情報や、TV、ラジオなどといったものからの情報も付け加えたい。部屋の中にいるだけで情報がたくさん入ってくるのだからすばやい情報収集が可能になるだろうし、さらに世界中の情報が手に入るので本より広い知識、いい知識(その中にはどうでもいい知識も含む)が手に入るだろう。特にインターネットの場合は膨大の量のHPと情報があり、手に入れる気になればいくらでも情報が手に入る(日本語以外の言語を理解できれば)。しかし、そうなった場合、ここで必要になってくるのは情報収集力ではなく情報選別力である。インターネットにはいろいろな情報がありすぎるので、その分間違いも多い。物によっては間違いのほうが多いということもあるだろう。それから、TVの場合は直接映像として情報が飛び込んでくるので、説得力が増し、盲目的にその情報を信じる、といったことが出てくる。それに、メディアからの情報というのは必要な知識の断片のみしかない、といったことが往々にしてある。そうなると、勘違いをしたり、誤った情報を他人に流したり、自分に都合のいい情報だけを信じるといったことがでてくるだろう。そういったことを避けるには、常に批判的な目で情報を見ることが大切だろう。または、その情報をあまり多く取り入れすぎないということが必要である(これは少数の意見を取り入れたり、はじめに目にした情報を信じるというのではなく、なるべく多くの意見を取り入れ、その中で重複する部分をなるべく信じるようにして、あまり深いところまで信じようとしないようにする、という意味である。つまるところ、広く浅く、ということである。インターネットからの情報の場合は特にこういったことが必要になる)。

 次は七番目、『問いを発する技法』である。たまたま目に付いたからここを取り上げたのだが、この章の【見えない学力が「問い」を生む】というところで、納得できなかった。というのも、根拠がないからである(どこかは忘れたが根拠がなくて納得できなかったのは他のところにもあった)。なるほどたしかに言っていることは正しそうではある。が、確実に正しいとは言いきれないので、説得力に欠けるのである。大学教授が書いているという時点で説得力は多分にあるのだろうが、具体的な例をあげてもらえるとより納得しやすい。(例えばこういった知識を持った人やある経験をした人がこの分野においてこういったことでその経験を生かし、今ではノーベル賞を取った、などといったことが書かれていると説得力も増すかもしれない。しかし、こういったことを書きすぎてもくどいだけだし、難しいところである)

 最後に講義やプリント全体を通しての批判として挙げると、中盤から後半にかけては、こうしなさい、ああしなさい、こうしたほうが良いよ、といったことばかりを挙げていた気がする。前半、特に最初のほうで大胆な大学改革論などを挙げていたわりには後半にパンチが足りなかった気がする。この本は学問の仕方に悩まざるを得ない人のために描かれているが、途中途中に学問に悩まざるを得ない人自身が自分自身で深く考えさせる場面があまり無かった。自分自身で考える、ということは何においても重要なことだろう。最初の大学改革論などはインパクトもあり、学問の道を進む初心者が批判もしやすい(納得もしやすい)だろうが、中盤から後半にもそういった大胆な案をところどころに入れても良かったのではないかと思う。なるほどなるほど、と納得したままでは成長しないだろう。それから、引用が多すぎるようにも思う。だれだれがどうした、どう言っていた、というのは確かに自分の意見に説得力を持たせるのに必要なことだが全体的にそれが多く見られた気がして、筆者の言いたいことを見失うことがあった(それが筆者の意見なのか過去の偉人の意見なのかがわからなかった)。こういったことを、特に読みはじめのあたりで使われると学問の道初心者は疲れてしまうのではないだろうか。これは学問の道初心者のための本のはずなので、中盤あたりにそういったことを多く入れたほうが良いのではないかと思う。最初のほうにあるとくどいように感じられてしまう。他にも、この本で取り上げていた内容はほとんど本(つまりはお堅いイメージ)がベースになっていると思われる(会話術とかレポートの書き方とかもあるが、どれもお堅いイメージがある)。図書館、本屋、読書術、etc。確かに本は大事だが、学問というのは本を読んだり議論をしたりすることだけが学問ではないと思う。最近ではメディアも発達したし、科学技術の進歩は目覚しいものがある。そういったことも取り入れて、学問というのを理解するために、パソコンなどを使った『学問の技法』という章もつけくわえて書いてみると良いのではないか。最近の大学生は、本よりもパソコンのほうが身近になってきているので(あまり良い傾向ではないかもしれないが、大学生なのだからパソコンの知識は必要だろうし、ある程度の知識はあるだろう)学問の道を進むのにパソコンを使うと、いくらかでも親しみやすく感じるのではないだろうか。それに、時代とともに学問というものを学ぶ手段は変わってきていると思うので、それも考慮に入れて、やはりこれからの時代にあった学問の技法も必要なのだろう。

 

最後に

 この本の内容は学問というひとつの枠だけでなく、実生活にも役立たせることができると思う。読書術や会話術などは実生活に反映されるものであるし、レポートを書くときなども役に立つだろう。つまりは、実生活は学問というものと密接なかかわりを持っているのだろう。おそらく昔は学問というのは知識人がやっていた事柄なのだろうが、現在では、知的レベルも向上し、全員が学問というものに少なからず関わっているのだと思う。これからの時代は、どのように学問を生かしていくかが重要なことになるのだろう。つまりそれは、この時代を生きる人全員が『学問に悩まざるを得ない人』であることを示すのかもしれない。

 

 

 

34040051 水沼花織 学問の技法ファイナル・エッセイ

学問の技法 小レポート vol.1

 この案は、最大の問題点をかかえている。それは、経済的な格差によって、受けることのできる教育の質に、差が生じるということだ。

 さて、順を追って説明しよう。この案が実施されたとする。現在、国立大学に通う大学生は、全大学生のうち20%程度。かりに、60%くらいの人が、国立大学に入ってくる、としよう。すると、今の3倍の人が、大学に入ってくるわけだ。単純に見積もって、北大は3万人!さて、これもまた単純に考えて、今の授業も3倍の人数で行われるとしよう。しかも、生徒の習熟度はばらばら。これで、質の高い授業が保てるだろうか?すみずみまで、行き届いた指導が行われるだろうか?

  すると、当然、予備校や高校の先生、企業にも協力してもらい、幅の広い豊かな教育を行うこととなる。数学や英語などに科目についていえば、習熟度の低い生徒には、それにあった授業を。高い学生には、それにあった授業を。しかし、ほかの科目についていえばどうだろう?一般の大学の教育者による授業では、大人数による授業のため、質の低下が予想される。なぜなら、ひとりひとりをきちんと指導する時間がないからだ。

  しかし、これにも限界があるものの、私立の大学は、太刀打ちできない。大幅な学生数の減少に加え、教育機関の長期化により、存続の危機になる。

  ここで、私立大学の反撃となる。舞台は学部受験である。国立大学での学部受験についての対策は、レベルの高い授業を受けた学生が有利になる。ではレベルの低い学生はどうすればいいのか?

  学部受験は、一次試験より数段ハードルが高い。そのため、1・2年次で勉強をがんばらねばならない。国立大学生は、授業を受けるのにも加えて、いろいろな人生経験を豊かにする授業を受けなくてはいけない。学部受験を控えているのに、その他のこともしなくてはならない。私立学生はどうだろう。私立大学は、授業の質を向上させざるを得ない。生き残るためには、それが必要なのだ。すると、私立学生は学部受験では有利にたつ。私立大学は、1次試験のできなかった学生を大学に入れ、学部受験のために、対策をみっちりする。そのため、お金のある学生は、私立大学に流れていく。私立大学は、12年次の学生の教育に力を入れる。私立大学だけではないかもしれない。もしかしたら、予備校もこの事業に参入するかもしれない。すると、能力はあるが、お金のない生徒は、学部受験では不利になる。

  経済的な格差によって、学部受験に有利不利が生じてしまう。

  すると、学部での12年間は、けっきょくは、現在の大学受験の二の舞になる、としか思えないのだが。

 

学問の技法 小レポート vol.2

「中身のないプライドを捨てよう」に関して思ったこと

 大学の授業に出て、驚いたことがある。大学の授業で、シーンとなる風景だ。教師が学生に質問する。そのあとで、皆シーンとなる。誰も何も言わない。質問に対して、誰も答えようとしない。皆、誰かが答えてくれるだろう、という顔をしている様に、私には見える。異様な風景だ。教師も困っている。これには、驚いたし、がっかりもした。またか、と思ったのである。

  私の在籍していた高校は、偏差値から見れば、中レベルそこそこの学校だった。けれども、教師が質問したら、それに皆答えていた。もちろん、みな相次いでわいわい意見がでる、というわけではない。ぽつぽつ、という雰囲気ではあるが皆自分の意見をきちんと、恥ずかしがらずに、言っていた。

  しかし、こういった経験がないわけではない。またか、と思ったのも、以前にもこのような経験をしたからだ。

  私は受験生のころ、塾に通っていた。その塾には、私立の生徒がおおく通っており、皆、高校の偏差値は私が通っていた高校よりより上だった。しかし、この塾でも同じような現象が起こっていた。教師が質問する。シーン。誰も答えない。そのため、講師は困って、ひとりで授業を進めてしまう。質問はありませんか、ときかれても、誰もなんとも言わない。私は心配になった。みな、わからないところがないのだろうか。やはり、レベルが違う、と。しかし、これには意外な結果が待ち受けていた。講師が、最後に、わからないところは、後で質問にきてください、といっていたのだ。そう、みな、質問は授業の後に、講師に個別に聞いていたのだった。

  しかし私は彼らを責めることはできない。なぜなら、私も同じだったからだ。周りが何もいわないと、無言の圧力をかけられているようで、何も聞けなかった。それに、言うことが的外れだと、恥ずかしくなる。それならば、あとで個別に聞いたほうが、ずっといいではないか。

  この考えが変わることになる。

  それは、こういった考えが頭をよぎったからだった。「どうして、恥ずかしくなるのだろう?」

  つまり、質問をして的外れだったり、その質問、または意見が他人にとってみたら幼稚で質問する価値もないもので、その他人に、ばかだと思われたりすることが、どうして恥ずかしいのだろうか、と。自分の意見をいうことが、恥ずかしいことだろうか。大切なのは、自分の意見を、正解に近い遠いにかかわらず、持っていることなのではないだろうか。正解に近づけなかったら、自分の思考プロセスを思い出し、何が足りなくて、誤った結論を導いたのか、を自覚することではないのか。

  この考えをもって、私は少し変わった。以前は、自分の意見が正解とかけ離れているときは、恥ずかしくて、冗談ではなく顔が赤くなった。頬に血が集まっているのがわかったほどだ。しかし、今何か疑問があって質問をしたり、自分の意見を言ったりした後は、逆にすがすがしい、いい気分になる。その意見が間違っていても、ああそういう見方をすればいいのか!と新鮮な気分になる。ますますがんばろう、というやる気がわいてくる。

  まさに、中身のない、無用なプライドを、捨てたことになる。私の場合は、プライドを打ち砕くものにであったわけではなかった。自分のちょっとした疑問が出発だった。もし、こんな中身のないプライドを持っている人がいたら、まず、疑問に思ってほしい。そこから、すべては始まる。今回の『学問の技法』内8ページ:中身のないプライドを捨てよう、を読んで、こんなことを思った。

 

学問の技法 小レポート vol.3

知性と感性の二分法に関して思ったこと  

 p.26の【知性と感性の二分法を考える】には違和感を覚えずにはいられなかった。気になる点がある。受験生に感性をうえつけようとして、逆にそれが

 

失敗する恐れのあることだ。

 なぜ、受験生に感性をうえつけようとして、逆にそれに失敗する恐れがあるのか、考えてみよう。受験生に感性をうえつけるのは、受験期には、感性が失われるかもしれないから、という仮定によるものだ。もちろん、感性をうえつけようとして、実技を課すのは不可能だろう。優れた感性を持つ人が、優れた表現力を伴うとは考えにくい。それに、私たちは芸術に関して、客観的になれない。感動を言語として言い表すことができない。芸術は抽象的だからだ。受け取り方は、万人によって異なる。だから、この試験では、芸術の知識を問う問題が出される。万人が認める事柄が出される。すると、今の受験と、どんな違いがあるだろうか。出題されるのは、その芸術作品の作者、技法や画法、それに歴史だろうか。鑑賞、といって、その作品を批評させるかもしれない。これによって、覚えることが多く、いっそう受験勉強はハードになり、芸術作品ではなく、芸術作品の情報にのみ注意がいく。すると、知性にはますます力を増し、感性はますます力を失うだろう。

 では、どのように感性を鍛えればいいのか。ある状況においてのみ、感性と知性をわけてしまえばいい。必要に応じることをせずに、感性と知性をごっちゃにする人々がいる。展覧会を例にとってみよう。美術展が開かれた。かれらは、気に入った絵を見つけると、その題名や作者やかかれた時代背景、あらゆるその絵に対する情報を得ようとする。それはいたって簡単だ。絵の脇には題名や作者がプラカードに書いてある。その情報を多く得れば得るほど、彼らは安心する。いったん感性が満足すると、知性を満足させなくては気がすまないからだ。子供と大人の違いがここにある。子供のほうが、ず

っと本質を見抜く才に長けている。こどもは、気に入った絵をどうするか。じっと見つめ、静かな余韻に浸る。その絵の本質を見抜こうとする。しかし、大

人になると、その絵よりもその絵にまつわる情報を欲しがる。あなたはどうだろうか。気に入った絵があったときに、その題名を見ていないか。作者や絵画に対する情報を求めてはいないか。そうではなく、知性を満足させる前に、なぜ自分がその絵に惹かれたのかについて、その絵に思い巡らすことが、自分の感性を磨くことであり、自分の精神を内省することにつながるのではないか。

 しかし、だからと言って、いつでも知性と感性の二分すればいいというわけではない。むしろ、上のような場合を除いて、知性と感性をひとつにしておくべきだろう。なぜなら、あらゆる知性の出発点は感性であるからだ。ある事柄に対して、ひとが何かを感じ、思うことから、すべては始まる。そのなかから、ダイヤの原石を見つけるか、ただのガラス玉を見つけるかは、そのひとの嗅覚、感性にかかっているのだから。

 

学問の技法 小レポート vol.

 今回は、特に意見もないので、自分の読書暦を振り返りつつ、読書が自分の人生に与えた影響を、考察する。

 しかし、困ったことがある。思えば、一番初めに自発的に手にした本はなんだったか覚えていないのだ。とりあえず、子供のころの読書体験を思い出してみたい。幼いころは、親の与えた本を夢中になって読んでいた。たくさんの絵本「はらぺこあおむし」だとか、「ぐりとぐら」などを読んだというより

眺めていた覚えがある。今なお読んでみても、奥が深くおもしろい。次に、小学生低学年のころ、絵よりも文字が多い挿絵入りの本を読むようになった。

「もりのへナソウル」や「エルマーの竜」だとか、「それいけ!ズッコケ三人組」や「かいけつぞろり」シリーズには胸を躍らせたものだ。小学校高学年になると、圧倒的に文字だらけの本、小文学を読むようになる。「伊豆の踊り子」や「若草物語」「「赤毛のアン」をよく読んでいた。具体的に、幸田文や私の育った家庭では、両親が習慣のように週末に本を買ってくれた。だから、本を読む機会が多かったのだ。しかし、まだ自ら進んでの読書、というわけではなかった。本を選ぼうにも選ぶ範囲があまりにも多く、両親に任せていたきらいがある。また、私は、中学受験をしたのだが、この読書の経験が多少ならずも国語の試験に役に立った。中学時代はあまり本を読まなかった。そのかわり、詩を多く読んだ。与謝野 晶子や山村暮鳥にはまった。高校生にもなると、いやというほど本を読んだ。とはいうものの実学書はあまり読まなかった。おもに、私はフィクションを好んだ。その中でも、「プッシュ」や「City」には精神面で深く印象を受けたし、農学部に進もう、と思ったのは深沢七郎の晩年の生活に憧れたからだった。このころ、読書の影響が私の中でかなりの部分を占めていた。さて、大学に入ると、実学書を必要に応じて読まざるを得なくなる。つい最近では、レポート作成のために就職と学歴の関連について調べるために、かなり多くの本を読んだ。実験のレポートを書くにしても、高校のレポート作成と比べて、一を書くために十は調べなくてはならない。もちろん、フィクションも読んでいる。最近は、ガートルード・スタインに興味がある。"You are all a lost generation."で有名な詩人、作家だ。北分館に原書があるようなので、今度借りて読んでみたい。

 今こうして自分の読書暦を思い出してきたが、読書は常にわたしにとって、どきどきわくわくするものだった。進路や人生の重要な決定の場面で、その影響が、影を落としてきた。けれど、読書が有用であるからといって、決して、強制的に読書を進めることはしてはいけないように思う。他人に強制されるよりも、じぶんから興味を持って、読書をすることのほうが、後に続くだろうし、得るものも大きい。もちろん、時間がない、面白い本がない、といって逃げている人は、例外だ。彼らは、本当の読書の楽しさを知らないのだろう。

 私は、読書のために生きているといってもいい。私の人生は読書とともに始まったからだ。というのも、まだ胎児である私が、始めて母のおなかを蹴ったのは、図書館であったそうなのだ。これからもいっそうの読書に励みたい。もちろん、理論に実践が伴うように、本を読んだままで、放置し、頭でっかちになってしまうことには、十分気をつけなくてはならないが。

 

学問の技法 小レポート vol.5

積ん読についてと、難解な書物を読むことについて述べたい。積ん読は、できる限りしないほうが良いと思われる。なぜなら、読もうと思わない限り、人は本を詠まないものだからだ。それに、読まないで放っておいてもいいような本なら、読む価値はない。というものの、私も積ん読をしている。日々の忙しさにかまけて、読書をさぼっていたのだ。確かに、積ん読をすると、本を読まなければ、という気になる。しかし、時間ができるまで読むことはできないし、読もう読もうと思っているうちに、ただいたずらに時間が過ぎ去ってしまうだけだ。読もうと思った本ならば、積ん読をしなくても、読むことになるだろう。

次に、難解な書物を読むことについて、述べたい。高校のころに、スピノザのエチカを読んだことがある。正直言って、何を言っているのか分からなかった。こんなものを名著とする人々の神経を疑った。しかし、難しい本は、無理をしてでも読んだほうがいい。なぜなら、自分にあった本を読むことでは、自分の能力をステップアップさせることはできないが、自分の能力より明らかに高い、つまり理解することができなさそうな本を読むことによってこそ、能力があがるからだ。というのも、難しい本を理解しようとすると、集中、緊張し、その本に向かい合っているような気分になり、自分のもてうる能力を使って、読書に励む。一時間かけてたった一文を理解したときの爽快さは、何者にも変えがたいものとなるだろう。だから、あえて難しい本を読む、ということには、賛成だ。また、こうした書物を、読むときには、積ん読は役に立つかもしれない。なぜなら、難しい書物を、読もうとする気持ちは得てして、持続しないものだからだ。

 

学問の技法小レポート vol.6

発表の作法について。

 58ページの、発表の作法内、アイ・コンタクトを心がけよう、に大いに共感するところがあった。

 高校生のころ、発表する機会が多々ではないが、たびたびあった。大学では、まだ一度もないが、自己紹介や授業内での小グループの話し合いなどを一種の発表と位置づけるのならば、発表の機会があることになる。高校、大学を通しての、他人の発表の仕方を見ていると、うまい人と下手な人の違いが良く分かる。発表のうまい人の例を取っていうなら、話を聞いている人を見渡し、全体に視線をめぐらすことが一番にあげられる。彼らは顔を下げて、話そうとはせず、メモを見つつ、人の目を見て話している。そのほうが、圧倒的に話を聞き、理解してもらえやすい。TVでも、ニュースキャスターはこちらをじっと見つめているではないか。逆に発表が下手な人は、メモを見たまま、下をじっと見ている。大学の授業にも当てはまるだろう。黒板と授業をしている講師を見かけたことはないだろうか。こういった講師や人に出会うと、ただ自分の意見を発表したいだけで、こちらには理解してほしくないのだろうかと、あきれてしまう。まったくの、独りよがりにも思える。会話でも、時々アイ・コンタクトが必要だろう。発表を、ひとりよがりの発表にさせないためにアイ・コンタクトを心がけることは基本中の基本であると思われる。

 次に、議論について述べたい。発表が一方的な行為だとすれば、議論は双方間における行為だといえよう。もちろん、一人心の中で議論を展開することもできるが、それだけでは、別の視点からの見解を見落としてしまいがちである。だから、議論をすることは、とても推奨されて良いと思うし、個人的にも議論をするのは楽しく、大好きだ。それは、議論することで、自分には発想できなかった考えであったり、それ自体を見落としていたり、また取るに足らないと思ったが、実は深遠なものであったりする考えを、知ることができることにある。そうしたことを発見するのは、議論ならではの面白さであると思う。しかし、気をつけなくてはならないことは、議論をするときは公人として会話する、ということだ。つまり、互いのプライベートな部分を、話題にする以外では、持ち出さない、ということであり、公私混同をきちんとわきまえることだ。

 最近のTVの議論番組を見ていると、この点を守っていない人々を見かける。こういった人々は、議論の目的を、履き違えているのだろう。議論の目的は、発表、会話も同じようだが、自分の考えを相手に伝えることにある。間違っても、相手を打ち負かすことを楽しむためにあるのではない。この点も含めて、今回のプリントに書かれたことを良く整理して記憶することで、今後の議論や発表を円滑に進めていきたい。

 

学問の技法に関する批判・批評

前半は、これまでの批評の小レポートの中で印象に残ったものを再び取り上げた。後半は、まだ書いていない小レポート分の批評である。

学校改革案について、レポートの後考えたことを述べてみたい。学校改革案は、本質的な、学歴主義・受験競争のおさえにはならないのではないか。小レポートでも指摘したが、学校改革案が施行されると、多くの人が国公立へと集中する。その結果、生徒一人にかける教育がおざなりになってしまう。そこで、私立大学が、3年生の試験に向けての教育に力を入れるとする。大学に、所定の点数を取れば入れるのならば、高校生の内から、そうした私立の大学に入る人も出てくるだろう。すると、結局は、お金のある人は私立の大学に行って3年生の試験に備え、反対にお金のないひとは国公立へといく。国公立へいくのは、お金のない人だけではなく、いろいろな年代のいろいろな人々も大学へ向かうことを忘れてはならない。すると、2年間を3年生の試験のためだけに費やしたお金のある私立大学生が有利となり、お金のない人は、資産の有無だけで、将来が決定される。3年生からの大学のレベルが一定だとすると、企業もそこから就職を取るようになり、結局は、学歴主義はなくならず、今よりもひどい状況に陥るかもしれない。

ならば、大学をなくしてしまえばいいのではないか。なくすといっても、廃止するわけではなく、誰もが簡単に大学に入れるようにする。大学改革案の3年の試験もなくす。そうすれば、大学は価値のあるところではなくなる。正確に言えば、本当に学びたい人には価値のあるところだが、そうでない人々にとっては、価値のないところになる。すると、企業も学歴や学校歴で、就職を決定するということもなくなるだろう。もしかすると、新しい資格試験ができるかもしれない。どちらにせよ、現在の大学選抜システムも、授業の大学改革案でも、一部の人が得をするようにしか思えないし、また、その人の学歴などの社会威信で、能力を決定する私たちにも責任がある。だからこそ、本当に学びたい人が学べる環境を作っていく必要があるのではないだろうか。

 

p.45.8

「読まないという方法」内「多読と言っても、読まない方法もある。読まずに触れる、触れずにただ耳に挟む、という読書の経験量を、意識的に増やしてみよう。」とあるが、それは聞きかじりに過ぎないのではないか。「『せっかく買ったのだから読まないともったいない』ということはない」とあるが、読もうと思うから、本を買うのであり、読まないならば、本を買うべきではない。読む時間をきちんと決めろ、までは言わないが、安易な理由(たとえば、ベストセラーだから、流行っているからetc.)で読まない本を購入することはやめてほしい。読まない本、価値のない本を買うと、質の良い本を見極めることのほうが大切なのではないか。もちろん、これは他人と比べて、多く読書をしている人にのみあてはまる。あまり読書をしていない、質の言い本と悪い本の見分け方のわからない人にこそあてはまる。こう言った人々に関しては、その段階に行きつくまでに、質の悪い本にめぐり合うことも大切である。しかし、質の言い本も悪い本も買って、どちらも読まないならば、その人の読書のスキルは変わらないであろう

.51

「古典は知のブランドである」内「古典と呼ばれる本は『人類にとっての知の財産』なのであるから、高級文化財を扱うように、それを自宅に陳列する意義がある。」とあるが、これでは、まるでブランド好きのOLのようだ。何が良くて何が悪いのかを決定する時に、人間が客観性を持って判断するということは100%無理なはずだ。だから、ある人にとっての『人類にとっての知の財産』がほかの人にとって見たらただの紙くずであったということもあろう。大切なのは、その人にとってのブランドを発見することであって、ブランドという名目で人を引き寄せらることではない。このように盲目的にブランド、知的権威に服従してしまおう、というのはあたかも、日本の権威主義を見ているようで、疑問の念を抱かざるを得ない。また、「あなたにとって古典とは、それを理解することよりも、むしろ次の世代に向けて、それを語り継ぐことのほうが重要な任務となる」とあるが、これはp.49の「古典を読む意味」を一刀両断している。「語り継ぐこと」のほうが重要ならば、「古典を読む意味」はない。

 

p.52

「長所と短所を同じくらい長く述べることができるようになりたい」とあるが、これは、誤った見解を生んでしまう恐れがある。「同じくらい長く」ということに執着してしまって、本来の、長所や短所の発見といった構想から離れてしまうかもしれない。つまり、同じだけ、ということにこだわって、どうでもいいような長所や短所を羅列する。しかし、情報になるのは、重要なことなのであって、そういったどうでもいいようなことは情報には流出しないだろう。つまり、長所・短所を量的に長く述べるのではなく、質的に、長所や短所を同じだけ深く探ることのほうが大切だろう。もっとも、どうでもいいようなことを探っているうちに、重要なことに気がつくのかもしれないが。

p.56-58,62

議論を盛り上げる神様たち内「自分の気持ちを自分の言葉で語るよりも、先人のすぐれた言葉で表現すると、それが他者に訴える力を持つ」とあるが、それでは、肝心の、自分の生の気持ちが見えてこないし、その先人の思想から一歩も先に進むことができない。たとえ、「自分が語るすべての言葉を引用で埋め尽くすことができ」ても、「人生は先人たちの饗宴とな」らないだろう。なぜなら、先人たちの言葉を引用し、先人たちに同化することで、そうした知的な権威を持つ人々に従順になり、あたかも自分がそうした知的な権威を持つ人々であるかのように錯覚するからだ。あくまで、そうしたうまい表現をもったのは先人たちであり、その言葉から学ぶこともあるだろうが、必要以上に引用すべきではない。先人たちは自分たちでその文句を思いついた。それならば、われわれも、自らの言葉で他人を納得させるようなうまい文句を作ろうと、せめて、ポーズをる必要があるのではないか。先人たちの教えを間に受けて、そこにじっととどまっているのではなく、その教えに啓発され、さらに前進しつづけなくてはならない。

これに関連して、p.62「見えない学力が問いを生む」内の「内申書の点がすぐれた『良い子』は、権威的なものに従順過ぎて、想像力に乏しい」とある。まさに、こういった人々こそが、古典を知的なブランドにし、先人の言葉を引用して、悦に浸るのではないだろうか。すると、矛盾が生じてしまう。次のp.63の「『よい子』をやめよう」で「真正の『よい子』は権威依存型の人間になってしまうのである」とある。古典を知的ブランドにしたり、先人の言葉を引用したりすることは、「権威依存型のよい子」のすることなのだから、こうしたことから、脱却しなくてはいけない。しかし、本文では、古典を知的ブランドにしたり、先人の言葉を引用したりすること(権威依存)を推奨している。はたして、この権威依存から、脱却するべきなのか。それとも、とどまるべきなのか。どちらなのか、わかりにくい。

p.64

「粘り強い懐疑から出発する」内の「『作文』は自分の思ったことを書くものである。これに対して、『小論文』はできるだけレベルの高いことを無理して背伸びして一生懸命書くものである。」と言う表現が気になった。小論文は、「レベルの高いことを無理して背伸びして一生懸命書くものである」とあるが、小論文の本質は、「?」ではじまり「!」で終わる、ということにある。つまり、自らの疑問から始まり、その疑問に対する自分の意見を展開し、それに対する回答で終わるのが、小論文なのではないか。作文・小論文の定義があいまいで、わかりにくい。次に、「『小論文』では、高校生活にかかわることを書かない。大学の先生が嫌うのは、文化祭・体育祭・クラブ活動・受験勉強などの話題である。みんな同じようなことを書いてくるから」とあるが、小論文のテーマを特定するべきではない。これは、おそらく受験テクニックとしての、小論文テーマの選び方であり、大学生としての小論文は、こういったものとは異なるのではないか。受験において「大学の先生が嫌う」という理由でテーマを限定するのは理解できるが、大学において「大学の先生が嫌う」からテーマを限定する、というのは権威に依存しているようだ。きちんと、大学では異なる、ということを明記するべきではないのか。

p.75

「よいレポートを書くためのヒント」内の「事実と価値の違いを明確にしよう」とあるが、その次の「3種類の意見を区別しよう」と言っているのだから、価値を意見として、「事実と意見の違いを明確にしよう」としたほうが、後につながるし、わかりやすいのではないか。また、その「3種類の意見を区別しよう」のB意見・感想は、3種類の意見と銘打ってあるのだから、ここに意見といれると、混乱する。意見を削るか、個人的な意見・感想としての意見などとあらかじめ銘打って、区別する必要がある。

p.83

「『技法』をバカにする人たち」内「上流階級に育った子供たちは、両親や地域の人間関係を通じて、幼いころから自然に知的・文化的な営みの作法を体得していく。これに対して下層階級の子供たちはそうはいかない」とあるが、今の日本は、見かけでは階級というものが存在しないはずだ。強いていうならば階層ではないだろうか。また、具体的に知的・文化的な営みの作法というものを考えても、特に考え方の差を生み出すまでに、大きいものを思いつくことができないのだが。

 

以上、脈絡もなく、授業プリントを参考に自分の考えたことを連ねてみた。

 

最後に

今、こうして自分の書いてきたレポートを羅列してみると、その多さに驚く。最初は、1200字というだけで、1時間半〜2時間くらいかかっていたのに、最終的には1200字/1時間くらいのスピードで書けるようになった。この講義を通して、頭の中で考えていたことを、うまくまとめやすくなった気がする。講義の内容も、普段は考えもしないこと、それでいて重要なことをテーマにしていて良かった。

残念なのは、斑内で話題を十分広げることができなかったことだ。ただ、自分の意見をとつとつと語るだけの場となってしまっていた。他人の意見に対して、もうちょっとつっこんだ批判をするべきだった、と思っている。また、個人的なことだが、このことに関して、一方的に批判するのはどうだろうか。班内で話が盛り上がらなかったのは、全員に責任がある。全員のうちには自分も含まれるし、全員を批判する前に、自分のことを一度見直す必要があるのではないか。すこし、自己に対して、甘えがあるように思えた。

統括的に見ると、やはりこの授業を取ってよかった。それは、授業ごとのテーマが面白かったこと、自分の意外な一面を発見したり、他人の意見に感銘を受けたりしたことによるのではないか。自分としては、皆の、終盤の古本やめぐりのエッセイが面白かった。提案がある。実際に考えたことを羅列するだけではつまらないから、この古本やめぐりのように、実際に生徒に行動を帰せ、その行動に生徒がじぶんの考えを交えてエッセイを書く、というようにしてはどうだろう。すべてではなくても良いから、半分くらいはこういったエッセイにすると、いきいきした文章が出てくると思う。

長々と書いてしまった。自分にとって、この講義をどのように自分の糧にしていくかが今後の問題だ。このレポートを保存しておいて、10年後の自分の考えと比べてみるのも面白いかもしれない。

 

 

 

 

8/12 学問の技法 期末レポート 05040098文学部1年  宗野裕治

これまでのすべてのレポートを並べ、最後に授業を通しての感想を載せました。

 

1回目    大学改革論の欠点と新たな提案                                                 

                         文学部 一年二組 宗野裕治

私は、この大学改革論に反対である。たしかにこの改革がうまくいけば、多くのメリットが生まれると思う。たとえば、生徒が時間と経験をかけて専門を決定できるし、専門分野で二次試験を受けるので、無駄に教養を詰め込む必要がなくなる。そうすれば生徒の勉強態度も向上し、高い能力を身につけられるだろう。

 しかし私はそれらの点を考慮しても、反対の立場をとる。なぜならば、この改革論ではあくまで生徒の自主性を排除し、大学入学までのプロセスを無視しているからだ。たとえば、もしこの方法をとるのならば、高校までの教育がどのような意味を持つのだろうか。私は高等学校の機能の一つに、将来目標の設定があると思う。高校の間にたくさんの本を読み、いろんなものに触れることで自分の興味を見つけるのだ。たしかに大学ほどの設備や授業はないかもしれないが、それは高校での教育も同時に見直す必要があるということではないのか。つまり大学だけでなく、「小・中・高・大学」すべてを考慮した教育制度全体の改革が必要だということだ。

 さらに、私は三年次試験でも、現在の受験と同じ競争がおきるのではないかと思う。それは現在の司法試験を見ればわかるだろう。おそらく試験の公正さを守るために、ペーパーテストが導入されるだろうが、そこではクイズのような難題が出題され、クリアするには機械のような正確さが必要とされるだろう。しかし世間で経験をつめばつむほど、そのような難題やクイズもどきは必要ないことがわかってくる。ここにフィールドワークをつんだ生徒との矛盾点が生じるのだ。

 また、先生はアメリカの大学に理想を見られたようだが、アメリカでは就職に博士号や修士号が重要視されている。それに対して日本では、出身大学や高校などの地縁的結合が重要視されている。その文化的な相違点の本質を見なければならないのではないか。もしもアメリカのように、大学できつい勉強を課すのならば、日本の社会構造をもかえる必要があるはずだ。勝手に大学だけ改革するのはよくないと思う。

 そこで私は次の提案をする。それは

            1・大学入試に一年の面接をつける

            2・高校・中学での将来目標や職業選択の教育を

              たかめる。

            3・現在の社会の変革

である。

 1について。私は大学生にとって大切なことは、本人に意思があるかどうかということだと思う。今の入試制度では、ペーパーテストの入試が主であるが、ペーパーテストでは本人の意思や意欲、性格までははかれない。しかしこれからの社会では、そこが重要視されるのは明白だ。だからこそ面接を重要視するのだ。

 2について。今の高校・中学教育では、自分で将来目標を決めるのは難しい。企業の仕組みも生徒だけでは理解しにくいだろう。私は、目標は躍進の原動力だと思う。それを早い段階から教育するのだ。

 3について。今日本では、高学歴=高収入という神話が崩れつつある。そして機能性を重視した労働力の開発の中で、こどもは大人に作られることを拒んでいるのではないか。その結果、大学生をはじめこどもの勉強の意義が失われはじめている。無理にそうしなくても生は達成できるのだ。そのような社会の理解、そして改善策の考慮なくして、大学や教育の改革はないだろう。

 ながくなったが、以上のとおりである。日本の大学生を変える手段として、単に大学の改革に取り組むのは危険である。そして、大学までのプロセスや社会の認識を改革すべきである。これが私の主張である。

 

2回目      学問の技法の不足な点について

                      05040098   宗野裕治

この草稿では「規律訓練によるガンバリズム」と「無心の熱中/生の躍動」に関心を払うとしているが、学問にはもうひとつ重要な条件がある。それは「環境」だ。私は脳の働きは環境によっても左右されると考える。

人間の脳化を例にしてみれば分かるが、緊張した状態や生存条件が厳しい状態では、脳は通常よりもよく働き、生が達成された状態やぬるま湯に使った状態では、働きも悪くなる。人間は生き延びるための手段として、脳を発達させたのだ。

たとえば2000年以上にわたって国家をもてなかったユダヤ人は、数多くの迫害を受けながらも経済・金融などの分野では重要な地位を占めていた。民族固有の領土をもたなかったかれらは、商業で生を達成したのだ。ロスチャイルド家は有名である。またディズレ−リやマルクス、アインシュタインやオッペンハイマーなどを見てもわかるとおり、かれらはどの民族よりも抽象的な思考が得意だ。つまり、ある種の脳化を成し遂げたといえるのではないだろうか。

 さらにいえば、環境は学問の動機にも関係がある。この草稿にあるように動機が不純であってもいいが、その動機をもたらすものも環境なのである。他人との関係、物事との出会い、新たな興味の発見などいずれも環境によって決まる。動機も周囲との関係性の中で立ち現れてくるのだ。

 いうまでもなく意思や努力は大切だ。しかし環境の影響も無視はできない。我々は絶えずさまざまなものの影響を受けている。その理解をなおざりにして、学問の技法を語ることはできないだろう。

では、学問にどんな環境が必要なのだろうか。そしてどのように環境を整備すればいいのだろうか。

現在は生が過剰に達成されて、脳を発達させる手段に「生存」は選択しにくくなっている。そこで私は必要な環境として、良い教育者・学問に打ち込める状況・気晴らしのできる状況・少しの堕落を防ぐ状況の4点を挙げる。

学問に専念できる環境は、いうまでもなく必要である。経済面や時間に余裕がなければ、学問よりも生活を優先させることになる。だが我々の多くはそれを達成しても、さらにどんなに強い意志をもっていても、壁にあたることになる。成長停滞期やマンネリズムがそうだ。それを克服するためには、方法や気分を変えなくてはならない。また我慢も必要かもしれない。その対処法として、環境が必要なのだ。教育者や師は(特に)刺激や方法に変化を与えてくれるし、気晴らしは文字通りに気分転換やリラックスを与えてくれる。そして堕落を防ぐことも環境によって対処できるだろう。

今挙げた例は、学問をする上で、自分の意志では克服しにくい点である。つまり私は、意思では克服しにくい点を補う手段として、環境を整備するべきだと主張するのだ。もし学問の方法を突き詰めるならば、「学問の技法」には、環境に対する配慮や指摘が必要だ。

(この環境に対する指摘については、後に配られた草稿に言及されていたことなので、あまり意味のないものとなりましたが、この回のレポートをまるまるすべて訂正するわけにもいかないので、あえてそのまま載せました。)

 

3回目    私なりの「知」について

                     文学部 1年 05040098  宗野裕治

 「学知」と「実践知」について自分なりの意見を作ろうという内容に興味を引かれたので、これについて述べようと思う。ただこれは草稿にもあるように、各人で捉え方が異なるものなので、私だけの「学知」と「実践知」の考えとして述べる。人間の知も、私の理想的な知として述べる。

私はまずこの草稿にあるテコの議題について述べるが、その前に前提として、百姓の子が貧しく、学問をするひまがないものとしておく。一般的な百姓の子の、生活レベルや知的レべルが、この草稿には示されていなかったからである。また「実践知」を、経験から得た能力かつ実際に使う能力と定義する。

 

 私は上手な使い方を知っているだけでは、十二歳の百姓の子は、テコとは何かを知っていないと思う。なぜなら彼はテコについて、それを言葉による枠組みにはめていないからだ。

十二歳の百姓の子に、「テコとは何か」と質問してみるとする。彼はテコをうまく説明できるのだろうか。テコを上手に使い、演技で示すことはできるかもしれないが、おそらくそれ以上の説明はできないだろう。しかし、ただテコをうまく使えるだけならば、それはサルやオランウータンにでも可能かもしれない。だがサルやオランウータンがそれを知っているといえるのか。私にはそうは思えない。動物の「知っている」と、人間の「知っている」では、大きな違いがあるのではないか。            

われわれは、ありのままの世界で生活していると錯覚しがちだが、実はそうではない。われわれは言葉によって、現実を構成している。言葉によってコスモスをつくり、その中でわれわれは存在できている。人間はありのままの外界であるカオスを、ありのままに認識することはできないのだ。

つまり私は、十二歳の百姓の子には実践からの飛躍が必要だと思うのだ。テコの場合は、まず生活で発案され、その後理論化された。そのプロセスに、人間の知が見出せると思う。ただ単に生活レベルで使うだけでは、ほかの動物と何ら変わりない。それを言葉によって置き換えること・言葉によって規定することが必要なのだ。われわれがわれわれを、人間として保つためには、言語による把握・再認識が不可欠である。

ただ、「知る」という言葉の捉え方は個人によって異なる。だから本文の生徒の意見にあるように、十二歳の少年と十八歳の学生では、知の内容が違うと考える人もいるだろう。しかし私は、十二歳の百姓の子は、人間特有の言葉による枠組みにはめていない点で、テコとは何かを知っているとはいえないと考える。

 

だが以上のように述べたからといって、私は「学知」と「実践知」について、「実践知」を軽視するべきだと述べるわけではない。両方が大事である。私の理想とする知とは、この両者がうまく機能することなのである。

 先のような事をテコの議題で述べたのは、テコの場合、歴史からみて「実践知」のほうが、「学知」よりも先んじたからである。「学知」は帰納的にできあがったといえるだろう。だが、逆の事項もある。先に理論があり、その後実践・開発が始まったものの事だ。例えば量子力学の登場が、光通信や原子力発電を生み出したことなどである。これは「学知」のほうが、「実践知」よりも先んじている。この種の場合は「実践知」からの発展よりも、はるかに高度な発展をとげられる。しかし、そこでは「実践知」の不足がよく起こり、それがまた失敗を招きやすい。アメリカのスペースシャトル事故の数々は、その例としていえるだろう。

そのような場合の失敗は、身近でさえもよく起こる。一見すると大して難しくないようなことが、実際にはうまくできなくて、その差異に驚くことがよくある。また理論や計画が完璧と思っても、実験で失敗することもある。学知を追求するだけでは、実がともなわないのだ。経験や実践がそこには必要なのである。

実践だけを重んじても、その知からは飛躍的な発展は望めない。また理論にとらわれ過ぎても、その知には実がともなわない。両者がともに、うまく機能することこそ、理想の知であると私は主張する。そう考えると、十二歳の少年と十八歳の学生の例は、社会上で知の分担をしているといえる。その意味で、知とは一人のものに限られない。「学知や実践知が、社会や個人で複合的に活用されること」、これが知ではないだろうか。

 

4回目   読書の在り方について

                      05040098 文学部 1年 宗野裕治

 私は、今回の草稿にあるように、本に夢中になることは必要だと考える。しかし、だからといって無理やりに読書をする必要はないと思う。読書よりもやりたいこと、興味のあることがあるのなら、それを優先させればいい。読書に興味を感じないうちは、わざわざする必要はないと思う。

 今回の草稿には、高校生の読書量について書かれてあった。これについて橋本教授は批判的なことを述べていらっしゃった。小学生とも比較されていた。しかし私は必ずしも批判的な意見を持たない。なぜなら彼ら高校生は読書よりもほかに、やりたいことや経験してみたいことを追求しているかもしれないからだ。

確かに読書から得られるものは大きい。知識を増やし、考え方や視点を養うことは、自分を向上させるために必要だろう。本は知識の宝庫であるし、図書館に行けばさまざまなジャンルに、しかも大量に出会うことができる。これをうまく使えば、高校生も有意義な生活が送れるだろう。

しかし、現実の世界に触れてみたいとする欲求まで止めようとは思わない。本では決して得られない経験もあるだろう。実際に触れるという作業により、新たな発見や成長を得られるのならば、これを止めてまで読書に向かう必要はないだろう。われわれは本を読んで感動したり、新たな視点を獲得できる。しかし本からは生の体験は得られない。あくまでも追体験の粋を超えることはないのだ。人を殺してみたい、ナイフで刺してみたいと欲求する子供の増加を考えてみてもらいたい。彼らは仮想的な現実らしさの中で、経験と思考の二重性のギャップに挟まれているのだ。これはまさに経験の不足がもたらしたといえるだろう。本やゲーム、映画では現実らしさ(リアリティー)しか味わえない。ただ単に読書の絶対量だけで、知的さの度合いを推し量るのは危険だ。

さらに述べるならば、小学生の読む本とは、ほとんどが漫画ではないのか。そうでなく活字が多いとしても、中学生や高校生の本よりは内容も量も大幅に落ちるであろう。それなのに小学生の読書量を目安にすることが、はたして適当か。また高校生は情緒不安定な時期にあり、社会における自己と他者を見つめなおす上に、学業もより高度になるので、読書に時間をかけにくくなっている。それに加えて高校生の読む本は小学生よりも時間がかかるのだから、読書の量が減ることには明確な要因があるといえる。単に高校生が読書を嫌う・学力低下という理由では、片付けられないことなのだ。

私は読書を軽んじているのではない。ただ読書に熱中する時期は人によって違うのだから(私は高校のときそうでしたが)、無理やり押しつけるべきではないと思うのだ。自分を向上させるものが読書以外にあると思うのなら、それをまずするべきだ。読書はそれからでもいい。ただし読書が必要だと感じたならば、すぐに始めなければならない。つまり私は、なんとなく動くのではなく、これだと思ったことを追求し、経験を得ることが大事だと主張するのである。読書はその中の、(偉大な)ひとつの方法であろう。

 

5回目のレポート

                        05040098 文学部1年 宗野裕治

 私は古典と呼ばれるものに触れることは大切だと思う。それは当たり前だが、ここでいくつか、私の考えた意義を書いてみることにする。

古典にふれることにより、その当時の文化や社会状況を理解する必要がでてくる。たとえばドン・キホーテを読んだところで、その当時の文化や社会状況を理解していなければ、ただの喜劇に終わってしまう。しかし、騎士階級の没落という時代背景を知ることで、セルバンデスが言いたかったことにより近づくことができる。さらに、古典により当時の文化や社会状況を理解するという、逆の方向も生まれるだろう。枕草子などは、その当時の美意識を知るために欠かせないものであるから、これらを読むことで、理解を深めることができる。

古典を知るということは、ある意味歴史を理解することでもある。なぜなら歴史とは人間の営みの積み重ねだからだ。1で述べた社会状況や文化を知ることは、人間の営為を見つめることである。

古典というものを読むと、今の自分たちの考えや生活も見えてくる。われわれは古典を知ることで、現代に通じるところや、相違点を見出すことができるからだ。古典の世界は、現在の文化や社会のひとつの対立項である。異文化に触れることで祖国の文化を再認識できるように、古典を読むことで、現在の文化や社会状況を再認識することができるのだ。

以上が私の考えた意義である。

 

 「買った本を読まないと損だという貧乏性」をなくそうということについて、私は必ずしもそれに賛成ではない。それは多読という観点からはいいかもしれないが、みすみす精読の機会を捨ててしまうことになるからだ。 

 たとえば映画館で見る映画と、安い金を払って見るレンタルビデオの映画では、どうであろうか。たくさん映画を見た人なら分かるであろうが、自分の映画を見る姿勢に違いが出るだろう。やはり映画館で見たほうが、何かを得ようという姿勢が強くなる。

これは歴史上でもそういえる。共産主義体制では必要に応じて受け取るため、人々の所得は分配され、それによって堕落が生まれ、生産性は低くなる。それに対して資本主義体制では、能力に応じて受け取るので、人々の労働意欲が湧くのである。そこにあるのは利益という存在である。

たしかに本には、自分にとって価値のあるものとないものがある。自分に価値がないものに、時間を費やしすぎてもだめだ。多読には大量の読書量が必要である。しかし一度本屋で買った以上、それは何らかの興味があってのことだろう。がめつい・元を取るという気持ちが大切ではないのか。その気持ちを利用して、自分の精読術をあげることができるのだ。それを捨てるデメリットも考慮する必要があると思う。

 

6回目、日本人の国民性改善について

                05040098 文学部1年 宗野裕治

 日本人は議論が得意ではないということについて、私もそう思う。それは日本という国の地理的状況に原因がある。日本は極東にあり、古来から異民族の侵入を受けることがほとんどなかった。このような単一民族の社会では、出る杭は打たれるし、角が立つのだ。そこにあるのは他者との連続観である。分かり合えることが前提、共通項を「さがす」社会なのだ。

 それに対し他の国ではどうであったか。ヨーロッパや中国の古城を見ればわかる。そこでは異民族の侵入を防ぐために、都市ごと城壁で囲まれているのだ。アメリカは「人種のるつぼ」であるから、異質なもの同士が暮らすために、当然コミュニケーションが発達している。特に西欧では、分かり合えないことが前提であり、共通項を「つくる」のだ。その社会では当然だが自己主張が必要となる。

 では、果たして今の日本の状況を変えるべきなのであろうか。それはとても難しい問題だ。変革する場合、その根拠となり得るのは、国際化というキーワードだろう。これからますます進む国際化のなかで、日本もこれまで以上に他国とのコミュニケーションを大事にしなければならない。その状況では、伝統的な日本型コミュニケーションはもはや通要しない。ボーダレス化していく世界で、われわれはコミュニケーションの手段を養っていかなくてはならない。さらに今後、もしも移民の受け入れが増えていくのならば、他国とは無関係に日本国内でもその必要が急激に増すだろう。

 だがその一方で、「日本の伝統を捨ててもいいのか」という問題になってくると私は考える。連続観こそが日本の伝統文化の根底にあるからだ。現代の考え方ではどの民族にも優劣はなく、野蛮や進化という言葉は使われない。その言葉はすぐに人種差別につながるとされる。そのなかで、われわれは本当に日本の伝統性を失うべきなのだろうか。前にもグループで話題に上ったが、われわれの多くが日本の伝統文化を理解できなくなってきていると私は思う。日本の文化は他国にはなかなか理解してもらえない。「わび・さび」という感覚は、われわれ日本人特有の感覚であろう。ただでさえ失われてきている伝統性をさらに失ってしまえば、われわれは日本人としてアイデンティティーを保つことができるのだろうか。変革しない場合の根拠はそこに求められるとおもう。

 そして私の考えだが、私は議論の能力を上げるように努力すべき、つまり変革が必要だという方向をとらざるをえないと思う。なぜなら今の世界はどうしても国際協調が重要だからだ。我々は2度の世界大戦を経て、あらゆる武力抗争に歯止めをかけることが正しいとしている。それが現在の主流である以上、国際的な感覚は必要だ。ただしそれには条件がある。日本の連続観をある程度は残すべきだと私は思うのだ。これは難しい問題であり、ここでは具体案を出せないが、それが達成できると私は信じている。過去の日本を振り返ればわかるように(幕末など)、日本も議論で盛り上がることは可能だ。伝統を残しながら新たな改革に進むことは可能であり、それが最もよいと私は考える。

 

7回目のレポート 新入生に勧める本3冊について

                    05040098 文学部1年 宗野裕治

 私は新入生に勧める本として、何にしようか迷った。「お勧めの本」がよく考えられなかったので、ただ単に自分が好きな本を挙げることにした。

 

   「街道をゆく」 司馬遼太郎

 私はいろいろな史跡を巡るのが好きだ。そのときに、一つの指針となるのがこの本だ。別に史跡の位置がたくさん載せてあるわけではないが、その土地を歩く上での考え方や、風土、ものの捉え方などを知る上で参考になる。彼は実際にその道を通っている(徒歩だけではないけど)のだから、その土地に行ってみた時に、なぜ彼がそう感じたのか、自分だったらどうなのかと考えることで、史跡巡りに深みが増す。

 

   「武田信玄」 新田次郎

 私がこれを知ったのは、高校の頃、NHKの大河ドラマの再放送で「武田信玄」をやっていたからだ。その原作がこの本である。だからこれは、本との出会いよりもドラマとの出会いのほうが先であった。私はそれまで、歴史小説はできるだけ史実に近いものであるべきだと考えていた。歴史とは過去物語であるから、ありのままの真実には到達できない。しかしそう考えても、それまで私が読んだ歴史小説はどれも、作者の意図や解釈があまりにも勝手な気がして、なかなか素直に納得できなかった。しかし、大河ドラマの「武田信玄」を見て、私はとても驚いた。史実にない解釈が、とても的を得ていた気がしたのだ。実際にこの本を読んでみると、やはり大河ドラマとは違う部分もあったが、それでも彼の解釈はすばらしかった。これは私の考え方を変えてくれた(それは直接的にはドラマだが)本なので、取りあげることにした。

 

   「世界が裁く東京裁判」 佐藤和男

 東京裁判については現在でも広く議論がなされている。その中で、東京裁判の不当性を主張しているのがこの本である。著者は青山学院大の教授であり、彼は国際法の学者だ。最近では東京裁判や太平洋戦争のことが改めて見直されているため、ここであえて取りあげる必要もないと思ったが、この本は国際法の学者の視点で書かれてあり、なかなか説得力がある。ただ全てが適切な引用とは言えないけれど(不確かな報告書や引用話など)。

 

私はこれからの国際化の中で、日本人としてのアイデンティティーをたもつために、自分の国の歴史を知っておく必要があると思う。そういう意味でもこの3冊は役に立つと思う。

 

9回目のレポート・4000字レポート

           05040098 文学部1年 宗野裕治

 批判を書けということであるが、82ページにあるように、この草稿の内容が『「ちまちましている」と思え』てくると認められてしまうのなら、わざわざ批判する必要もないと思った。しかし、自分の意見が役に立つのならと思い、いろいろと批判点を挙げることにした。

 

p3『「これが学問だ」という具合に気負って営むべきものではなく』と、『自分の精神を鍛えるためにとか、教養を身につけるためにとか、あるいは社会に役立てるためにとか、そういった目的から始めると、多くの人は挫折してしまうようにできている。』のつながりがわかりにくい。「自分の精神を鍛えること、教養を身につけること、あるいは社会に役立てることが学問なのだ」と決めつけることが良くない、ということなのだろうか。ここは表現を変えるべきであると思う。

 

P3 『そういった目的から始めると、多くの人は挫折してしまうようにできている。むしろ学問は、「型」から入ったほうが挫折しにくいようだ。型から入って、実質をつかむ。このやり方は実は武道でも同じである。』の部分はわかりにくい。目的の話をしているのに、いきなり『型』に話題が飛んでしまっていて、核心がつかみづらくなっている。

また、武道をする人は、武道を極める、もしくは武道によって精神を鍛えるという目的を持っているのではないか。そしてその段階を踏んでから、型を学び始めるのではないだろうか。武道が例として適切かどうか、再考する必要があると思う。

さらに、「型」についての内容がはっきりしない。p3『そのなんだかよくわからない魅力と、その技法の面白さから入門すべきだ。』とあるが、それが学問の「型」なのであろうか。それとも、P1『本書は、学問するための技法について論じた実践の本です。』 や、『学問というものに的をしぼってアドバイスした本』を根拠として、この草稿である「学問の技法」を「型」とするのだろうか。いずれにしても、「型」についての新たな説明が必要であると思う。(p1.学問とは何かが型の説明ならば、文章が長すぎるし、要約やまとめがないので、「型」とするには無理がある。)

    

P4−P6では、「遊び」(特にカイヨワの定義した)としての学問・学問をするための動機について述べられている。p5『「学問したい」という動機だけで学問する人はいない。』とあるが、これは成り立ちにくい。「遊び」をしたいという動機だけで「遊ぶ」人たちもいないといえるのだろうか。p5『学問と「遊び」が驚くほど似ている』のに、この点だけが違っているのだろうか。

また、p5『学問という生活スタイルは、いろいろな動機を持たなければ確立できない』、p6『とにかくいいかげんな動機から出発してみよう。学問するというスタイルが持続すれば、やがて、学問への動機や欲求がよりマシなものへと変化する。』とあるが、これはp3で「自分の精神を鍛えること、教養を身につけること、あるいは社会に役立てること」という目的を持つべきではないということに矛盾している。まず、目的が動機となる場合がある。また、学問にいろいろな動機が必要ならば、これらを動機の1つにしてもいいということになるからだ。

 

p46 文学書を読むときには、『感動を妨げるものはすべて取りのぞかねばならない。』という部分は言い過ぎであると思う。これは引用かどうかよくわからないが、すべてを取り去ってしまうことが果たして妥当だろうか。それでは文学に革新や進歩が存在しなくなるだろう。『無防備に接する』という表現によるならば、どんなつまらない物語も、その感情を否定しなければならなくなる。

また、文学書と学術書の違いは、もっと違う表現を使ってもいいと思う。それは根本的な違いについてである。この草稿では不十分ではないだろうか。社会科学の読書についてもかかれてあるので、それも含めて考えるが、とてもよい表現があるのでそれを引用したい(少しわかりにくいけど)。「文学は具体的な経験の具体性を強調する」、「科学は具体的な経験の一面を抽象化し、抽象化された経験は、他の同類の経験と関係づけられて分類される」(加藤周一『文学の概念』)。文学書の違いについての説明は、この草稿に書かれてあるとおりで問題ないと思う(「一回限りの特別な経験」という表現が入るとわかりやすい)。しかし学術書の場合、特に科学と名のつく類の学術書の場合の説明には、それが何を志向しているかをきちんと載せたほうがいいと思う。文学・科学どちらとも経験と関わっているのだが、それから先が異なるのだ。具体的で特殊な一回限りの「経験」が文学の対象であるのに対し、「経験」を抽象化し分類して、法則を見出すことが科学であるということだ。

 

p56『議論を盛り上げるための神様』の部分はわかりにくい。何が言いたいのかはっきりしていないと感じる。神や崇拝者を背後におき、その観点を借りるということだが、ここでいう「神」とは自分自身の観点・価値観のことも指しているのであろうか。それは言い換えれば自分のアイデンティティーの根源となっているもののことである。それならば、先に「神」についての説明があったほうがいい。そうでないと太宰治の引用も、よく意味がわからないままになってしまう。

議論のためにはしっかりした自分の価値観・観点が必要であるが、学生のうちはそれがまだ確立途上にあったり、きちんと確立していない場合が多いので、あえて引用することにより議論に説得力を持たすべきだ。よくよく読んでみればおそらくこういうことだろうが、わかりづらい部分であった。またそれならば、自分の価値観や観点の確立の方法まで言及する必要がある。

 私が「表現が悪い」や「わかりづらい」などの理由で批判できるところは、このぐらいであった。後は自分の経験や能力から言っても批判できそうなところはない。しかしなかなか苦労するものであった。字数が余ったので、橋本氏が最後の一つ前の授業でおしゃった流動化する社会についての自分の意見を書こうと思う。

 私は橋本氏の意見に賛成だ。たしかに社会は流動化したほうがいい。固定化されると、歴史上必ず階級対立が起こる。血を見ることは避けなければならない。その中で、たとえば大学改革論も必要であるといえる。

しかし注目したいのは、社会において必ず、何らかの妥協が必要であるということだ。どんなに競争化社会が発展しても、100パーセント競争化された社会はありえない。そのような社会はまさに乱世であり(乱世でもありえないかもしれない)、現在のようにある程度国境や政府が確定した社会ではありえないと思う。そして問題は、どの程度の妥協を、どの範囲で用いるべきかということである。

これはとても難しい問題である。その妥協や規制が強ければ、人間は安住してしまい、利権をたらいまわしにする事態が起こるだろう。かといってそれを弱くし、人間の行動の動機を競争原理に任せ過ぎても、障害が発生することは明らかである(市場経済の失敗など)。

だが、現在の社会において、新たな改革が必要なことはたしかであると思う。それは民間・政府の両方でいえる。われわれは過去のしがらみに捉われ過ぎているのではないか。それを抜け出る必要があるだろう。次々に変化していく社会の中で、これまで直面したことのない事態に直面している。ところがそのような自体にも、過去の制度を適用しているのだ。改革の必要は大いにある。

そしてそこで必要なことは、合理化精神を持った人材であると思う。つまりその人材が、今の社会には必要であるというのだ。それは歴史を見てもわかることである。たとえば織田信長や大村益次郎はその典型的な例であろう。中世権威、つまり旧体制を打破する試みは、常に新たな方向性を生み出し、急速に組織を向上させていく。最近では日産のゴーン社長がそうである。合理化精神は、固定化した社会を変えていくことになるだろう。

ただそこには問題もある。必ず旧体制に固執する勢力が存在するのだ。それが足を引っ張ってしまう。明智光秀の謀反はそれが動機であるし、大村益次郎も暗殺された。抵抗勢力との闘いが必ず発生する。また他にも問題はある。改革の方向が間違っていれば、とんでもないことになるのだ。ヒトラーはそのいい例である。改革そのものが危険な場合もあるのだ。それらのことに注意しながら、われわれは現代社会の問題に立ち向かう必要があると思う。

 

授業の感想

最後に学問の技法を受講しての感想を述べます。この講義では、みんないろいろな意見を持っていて、とても参考になりました。人の意見を聞くということは、新たな発見があるだけでなく、自分の意見を再認識する契機となり、さらに自分の考察を深めることにもなります。さまざまな意見を知ることができて、本当によかったです。

みんなもそうでしょうが、私もとてもきつかった。できるだけ社会問題と関連付け、少しでも独自性と説得力のある意見を出そうとして、毎回何かに挑戦するような感覚でした。本当に頭を悩ませましたが、それだけに自分によい投資をしたといえるでしょう。

これから先の大学生活の中で、自分の意見がどう変わっていくか楽しみでもあります。数年後振り返ってみて、この自分のレポート集が幼稚に思えるくらいの成長を遂げたいです。他の授業のレポートもそうですが、特にこの授業のレポートは、自分の成長を鑑みる上での基準となります。そういう意味でもこの授業は、大変大きなものを私にくれたのだと思います。学問の技法を受講できて、本当によかった。

みなさん、どうもありがとうございました。

 

 

 

一般教育演習科目 学問の技法最終レポート

工学部30組   25040240白井 賢志

4月30日の「大学改革案」についての批評 

                             白井 賢志

 

 今回の講義の内容は、橋本講師の考えてきた「大学改革案」の概要を視聴し、その内容について意見、批評などを発表するというものだった。講義の感想は、積極的に意見を発表するという場の雰囲気がすばらしかった。自分の意見をいかに他人に伝えるかが学べるよい授業だと思った。

 「大学改革案」に対する自分の意見を述べると、二段階試験の意味と学力向上に対して疑問がある。入学試験を共通一次試験の基準点以上で好きな大学を選べるということにすると、明らかに大学に片寄りができてしまう。その場合募集人数の多い学校が少ない学校を買収するという案であったが、これは義務ではなく、買収する気がなければ学校は企業のように潰れてしまうのだ。厳密には潰れるという表現ではないが。学校が無くなるということは今までにもあったことだが、この案を導入すると明らかに「潰れる」大学が増加してしまう。さすがにそれは問題ではないだろうか。学力向上の面では、一概にそうとは言えないが、逆に低下するという見解を僕は持つ。まず二次試験に落ちたら進級できずに短大卒の資格を与えるとあり、二次試験は一次試験を受けてなくても受けることができるとある。このことから考えると、実質大学の勉強は三年からとなり、二年間しかできないということになる。そして試験のレベルを高くしたからといって合格した生徒全員の入学後の成績が良いというわけではないのは配られたプリントのグラフからも明らかだ。今回は二次試験のレベルの高さには触れていないがやはり学力向上には試験云々ではなくて、それぞれの講義の単位の習得方法などに目をつけたほうがいいのではないだろうか。

  また全体の内容とプリントから考察すると、この案は主に大学院まで学習する人を念頭において考えられているように思える。僕は工学部だが、大体の人は大学院に進学すると予想される。長い学校生活は確かに社会に、これからの仕事に必要な知識の取得を確かなものにしてくれるだろう。だが平均寿命が延びたからといって学習過程も伸ばしたほうがいいというのは行きすぎではないだろうか。早く自立したいと思うのは僕だけだろうか。知識をつけるのも大事だがそれだけにとらわれないでほしいと思う。高卒で立派な企業に勤めている人だっているのだから。ごくごく僅かだが。

今回の講義に関して共感を持った点は、下手な大学講師より予備校の教師や高校教師のほうが授業を教えるのが上手いというところである。少し論点から外れるかもしれないが、はっきりいって教師という仕事に魅力を見出せないのに教師をやっている人はやめるべきである。予備校の教師を見てあらためてそう思った。働かなくても月給が同じなどと言って手を抜いて講義をしていたりやる気のない授業をするのは迷惑である。「生徒がやる気がないから」という講師もいると思うのだが、言い訳にしか過ぎない。きちんと仕事をこなし、仕事を放棄していたら責任を取るのが社会人ではないかと僕は思う。

 

二回目の講義レポート

2004年5月7日 25040240 白井 賢志

 

5月7日の授業を受けて、「勉強と学問とはむしろ正反対のものである」というところに

非常に興味がわいた。まず、講義内容からの考察だと、勉強と学問とは正反対となるだろう。だが、どちらもこれからの人生において欠かすことのできない大事なものである。「問いに対する答えを学ぶ」ことも、「答えの確定していない新たな問いを発する」ことも、社会に出るためには欠かせないものである。ただ、今の日本人が、新たな問いを発することがおろそかになっているためにこのような対比を使っているのだと僕は思う。確かに今の人は、与えられた事をこなすのには十分な能力を持っているが、自分から進んで発展していこうという人が少なくなっているのは感じられる。しかし、「学ぶ」ということは発展してこそ意味があるものだ。問題を「解く」事と問題を「見つける」ことは同様に重要である。解く力は問題がなければ意味がないのだ。だからといって問題提議ばかりしていても意味がない。勉強と学問、解く力と問いを発する力は正反対であり、密接な関係を持っているということが僕の結論である。

 中身のないプライドを捨てよう、という意見には賛成したい。僕が思うにプライドというものは基本的にいらないものだと思う。プライドとは「誇り」であり、自分の「誇り」とは突出した能力だと思う。そして、その部分を馬鹿にされたときに「プライドが傷ついた」と言っていいのだと思う。プライドが邪魔して勉強できないなんていうのはプライドも何も関係ない。就職活動でよい会社に就職できずにプライドが傷ついたというのも、たとえ半端なプライドを持っていい会社に入ったとしてもその後会社でどうなるかはわかりきったことである。

 学問生活をグラフに表し説明したことについて、僕は目標を見つけるまでがひたすら学問をがんばる時期だと考える。そして目標を見つけたときに、生の躍動と目標への努力が同一すると思う。逆のパターンもあるかと思うが、目標とは見つける努力をしないと見つからないものである。ただ、すぐに達成してしまう目標を立てることはやめたほうがいいと思う。まあそんなことはないと思うが。達成したとたんにだらけた人間になってしまうからだ。たった1、2年で達成してしまうような目標はそうなりがちである。

 しかし、人生を目標に向かって進んでいるという人ははっきりいってほとんどいない。人生に目標、生きがいのない人もいるのかもしれないが、やはり希望した仕事に就けないという人がほとんどである。必死に学問を学んでも報われない人もいる。ただ報われないなりに学んだことは役に立つ。本当に身につけていればの話だが。

 

 5月21日の講義内容についての感想

    25040240 白井 賢志

 

 今回の講義は個人のレポートに対する班員の批評が中心だった。先生から渡されたプリンとの内容で僕の興味をひいたのは、自己否定と、知性と感性の二分法である。

 まず自己否定について考える。僕の率直な意見は、自己を否定することは向上心を失わせるのとは繋がらないというものだ。この場合の向上心を失われるものは、自分の無知にあきれ、卑屈になってしまうことである。卑屈になると人の助言は聞き入れようとせず、自分で立ち直れない限り卑屈になった対象について完全に道を閉ざしてしまうだろう。このようなケースは自己否定といわない。最初は興味があったものも、授業を聞くうちに興味が無くなったというのはまさにこのケースである。

 自己を簡単に否定するのは悪いことではない。ただ、自己を否定するということは、そうなるきっかけとなった別の意見、事柄を受け入れ、新たな自己を形成するためのものである。この場合の簡単とは、意見をころころと変えるのではなく、相手の意見を自分の考えに容易に取り入れることを指す。このようなことを容易にできる人というのは、知的好奇心が尽きることはないだろう。常に相手の思想を柔軟に受け入れることができるのだから。

 自分を馬鹿にすることで知的好奇心が薄れるということは、「自分は馬鹿だ」と堂々と人前で公言している場合だと僕は考える。このような人は周りに自分のレベルを認識させて後々起こるかもしれない自分の挫折において保険をかけているのだと僕は思う。他人に卑下されないための保険を。しかし保障がある人間は少なからず向上心が薄れるものだ。向上心が薄れるとそれに輪をかけて努力をしなくなる。悪循環だ。それに対して公言しない人は大体は他人より劣っているという危機感を持ち、向上しようという努力をする。それに伴い知的好奇心を持つ機会が増える。自己の否定を刻限すると市内とではかなりの差ができるのではないかと僕は思う。

 知性と感性、これについて受験勉強が例に挙げられたが、僕は、芸術分野の教養が才能によって決まるのなら勉強もそうではないかと考える。勉強は努力によって決まるのなら芸術分野は努力をしないで決まるのだろうか、いやそうではない。勉強にも得手不得手があるのは当然である。ただどちらにも当てはまるのは、基礎的な共用は努力によって身につくものだ.基礎が身につかないということは、その教科に興味がないということだ。そして興味をなくした原因の一つに受験勉強に必要ないということが挙げられる。専門学校は別だが。僕は芸術分野が人生に必要ない教養とは思わない。大学受験に取り入れても支障ないと考える。なぜなら受験に取り入れない限り大多数の学生が芸術に興味を示さないまま芸術というものを理解していくことになるからだ。

 

5月28日のプリントについて      25040240 白井 賢志

 

 「本を読む」という行為は読む人の意識によってさまざまな意味合いになる。それこそ暇つぶしから自分の学びたい分野の知識を得るため、また学びたいことを見つけるための行動と色々である。だが本を読む理由に関わらず書いてある文章、またその文章の指し示す意味などをすべて把握しようとするのは無理なのは明らかである。時間をかければできるかもしれないがそれこそ色々な資料を集めなければならず手間がかかってしまう。僕が言いたいのは「本を読む」といえるのはその本の内容を思い起こすことが出来るかどうかだと考える。それがどんな小さなことでもいいから、その本の名前を聞いたら「ああ、こんなことが書いてたな」くらいでも思い起こせることが出来ればその本を「読んだ」ということになると思う。プリントにも書いていたが、最初に本を読むときには別につまらなくてもいい。ただ何かその本に対して印象を持ってほしい。よい印象でも悪い印象でも本に対して感情を持つことは興味を示すことになるからだ。

 僕自身本を読むことは非常によいことだと思っている。本には色々なジャンルがあり、思想があり、経験がある。生き方を強引に変えろとは言わないが、人の人生を自分の人生の参考にすることはとても自分にとって有利に働く。それが人生でなくても、人の考えでも問題はない。そのような経験、思考を最も良く学べるものが「本」である。完全に自分的な考えだが、実体験を直接、例えば講義などで感動させるように伝えることが出来る人というのは限られているのではないだろうか。その点文章で伝えることは、比較すると容易であり、何より文章から読み取るということは、「想像することが出来る」というのが利点である。人の経験や考えを学ぶということは、必ずしも事実を記憶するということではない。自分的に思い浮かべ、自分の知識の一環にするということが大事である。

 読書する気分、環境は特にこだわる必要はないと思う。プリントに「祈ろうと思ったからひざまずくのではなく、ひざまずくから祈る気持ちになるのだ」とあるが、僕も同意である。物事を試行錯誤する前に行動を起こすことは物事を学ぶ、身につけるために最も必要であり効果的である。行動する前の試行錯誤というものは自分の経験に基づかない、その行動に対して消極的にさせる行為である。読書をする環境や気分を考えることは、このことに当てはまり本を読むことに対して消極的にさせるので、特にこだわる必要はない。

 

6月11日配布プリントについて

                            25040240 白井 賢志

 

 本を読むことは、周りの情報を得るために必要なことである。しかし、その情報を常に維持するためには、常に本を読む習慣を身に付けなければならない。それを身に付ければ読んでいるジャンルについての知識が増え、洗練され、確立される。そして別のジャンルの本に手を出し、さらに知識を増やせる。ただ、自分のそのジャンルに対する知識を確立させるまで本を読むにはかなりの時間と量を費やさなければならない。もちろん専門書も必要だ。翻訳機も必要になるかもしれない。はたしてそこまでして本を読む必要があるのだろうか? 僕はそうは思わない。前回のレポートで僕は「本を読むことが世の中の情報を手に入れるための最良の方法であると考える。」とコメントしたが、本を読むことで世の中のすべての情報が手に入るわけはない。自分の目で、耳で、手や体で感じ取る情報も多々あるのだから。あえて例にあげると大学生活もそのひとつである。そして読書はそのような情報の入手源を大幅に削ってまで行うものではないのではないだろうか。確かに読書をするときはある一定以上の集中力が必要不可欠である。しかし、集中と時間は別物だ。集中するために多少の時間が必要になるという人は読書をする前に集中力をつける努力をしなければならないのではないか。読書の集中力はほかの集中力と別だ、という人もいるかもしれない。それは言い訳ではないか。 少し論点がずれたが、読書の必要性と自分の生活との比較を考えて読書をしてほしい。し過ぎず、しなさ過ぎずに。

 本の速読について、僕はある程度の知識を持っている人は、そのジャンルについて読書する楽しみを失うのではないかと考えた。この「速読」というものは、本の全体をぼんやりと読み、自分の知識を引っ張り出して書いてあることをその知識の中から位置づけるというものである。これらから察するに、速読という行為は完全に新しい情報を得ていないことになる。速読をできるようになるまで知識を頭に詰め込んだ人はほめられて然りだが、速読という行為自体はあまりほめられたものではない、と僕は考える。

 プリントに難解な本に挑戦すると書いてあったが、これも集中力の問題である。当たり前だが、集中力もなく、難しい本などに挑戦しても意味がない。本に慣れるためという人もいるかもしれないが、本に慣れるということは(初めて本を読むといった場合に限り)本に対する集中力に慣れるということであり、さっきも言ったとおり、集中力とはいたるところで鍛えることが出来る。やはり難解な本を読むにはある程度の知識を同ジャンルの本から学び取ってから読むことが定石ではないだろうか。

 

6月18日のプリントについて

                         25040240 白井 賢志

 

 今回のプリントは、主に議論、発表、発言などについて書かれているが、議論というものは自分の考えにどれだけ他人の考えを取り込み、より自身をもつことが出来るかでその議論の価値が決まるのではないかと私は考える。他人の考えとは、話題をより深く追給した時自分とまったく同じであることなどありえないものだ。例外として議題にするほど話が膨らまない議題は別である。そのような場合を除いて他人の意見と自分の意見との相違が出てきたときに行うべき議論の方法とは、他人の意見に対する批判や同意を中心に議論を進めるのではなくて、他人の意見との相違点に基づいた自分の意見の詳しい説明や主張を中心に議論を進めていくことが大事である。話している内容は同じだから、相手の意見と自分の意見との根本的内容は同じである。よって、自分の考えの向上を図るためには、議論によって自分の意見のダメなところを自分の考えから削除することよりも、他人の意見のよいところを自分の考えに追加することのほうが大事ではないかと私は考える。自分の意見を主張することによって、他人に自分の意見のよいところを与え、他人がそれをすることによって自分が他人の意見のよいところを参考に出来るということである。決して前者が大事ではないということではない。ただ、議会とは他人との意見の交換、情報の交換所なのだから、自分の意見を主体に考えるよりも他人の意見を主体に考えて、それを参考にしながら自分の考えを、知識を増やしていくのがよい議論の仕方だと思う。自分の間違った意見は他人の意見を参考にしたうえで自分で気づくくらいの関心でよいのではないかと思う。

 ただ、他人の意見を鵜呑みにするのはあまりよくないことだ。私は、議会を始める前に持たなくてはいけない自分の意見に多少なりとも誇りを持ってほしいと願う。持たないと、

他人の自分の意見に対する批判に対して、「その通りだね」という返答が多発して、自分にとってあまり利益にならない。自分の考えの向上のためには、多少なりとも自分の意見に誇りをもち、少なからず他人の批判に対して抵抗するそぶりをみせるべきである。そうすることによって他人に自分の意見を印象付けられて、他人の能力向上の手助けになる。そこから話題を発展させていけば自分の考えを向上させるチャンスが起こるかもしれない。

 補足だが、意見の否定はけっして悪いことではない。むしろ議会を成り立たせるには必要不可欠なものだ。今まで述べたことも自分の意見を述べた上で他人の意見を批判することは問題ない。問題なのは「こういうのって何かイヤだ」という類の否定である。不快感を覚え、自分の意見がはっきりと現れてなく、何より情報交換をしていない。このような意見で成り立つような議会はあまり意味がないのではないか。

 

学問の技法に対する批判 25040240 白井 賢志

 今回のレポートは、学問の技法に対する批判的考えを4000字以内にまとめるというものである。書き方としては、私は今回受講した「学問の技法」の授業内容を3つに分け、それぞれで細かく批判をして、最後に自分なりの感想を書いてまとめる、というふうに書いている。

 内容としては、今まで書いたレポートの批判的内容を主な題材として引用した。変わった意見などを付け足して、項目ごとに分けて読みやすく整理してある。

 

・1、大学受験と進級試験の改革論について

 

講義の最初の議題として、橋本努先生が考える「大学改革論」が挙げられた。大まかな内容としては、センター試験受験者のみ900点満点中600点以上とれば無条件で大学を選んで入ることができ、大学2年終了時に進級試験を課す、という内容である。

 

(1)ワンクッションおく意味

 今回の「大学改革論」の目的の一つとして、大学生の学力向上がある。現在大学生の学力は確実に低下しつつある。大学生の大半は就職を考えているので、学力低下はすなわち日本経済の低迷を表すこととなる。よって今までの大学のシステムを変えるというのは決して間違った判断ではない。

 ただ、この改革論は大学で学ぶ学問の能力を低下させるのではないかと私は考える。なぜなら、3年進級試験を筆記試験で行うのならば、必然的に大学で学ぶ1,2年の講義は受験で有利な講義しかとらなくなって偏りができてしまい、大学で考えるべき進路の道が狭まってしまう。少なくとも1,2年の講義は就職を考えた履修の仕方で決めるのではなく進級を考えた履修の仕方で決めることになるだろう。大学の1,2年とは進路決めの期間ではないのだろうか。

 

(2)大学院に「行かない」場合

 この「大学改革論」は、大学院進学を主に念頭において考えられていると私は思う。専門知識の学習を試験勉強で覚えさせようとするなら、常に試験勉強のような学習をしないと専門知識が身につかないようになってしまう。今の大学生で、毎日の勉強の積み重ねのみで試験を通るような生徒は非常に少ない。そしてそのような無理な学習を続けることは不可能である。

 よって、1,2年で覚えた「試験に必要な知識」というのは専門分野の研究などにおいてはあまり利用できないと思われる。ということは必然的に3年からの勉強を通して1,2年の復習を行うのが必要となる。

 そのようになると、知識を乱暴に頭に詰め込んでいるような感じがして、実際に身についているのかが不安になってくる。よって大学院進学者が増えていく、ということになる。もちろん純粋に知識を追求したいということで大学院に進学する人もたくさんいる。ただ、この「大学改革論」は、大学院に行くことを想定して考えられているということがわかる。

 そうなると、大学院に通わない人はどうなるか。知識の確立が不安定なまま就職して、自分の研究や仕事に満足できる成果が得られず失望して失職する人も中にはいるかもしれない。もちろん全部が全部そうではないが、少なからず大学である程度の知識を確立できるようなカリキュラムが備わらないと大学というものは成り立たないのではないか。

 

・勉強と学問の対比と学問生活について

(1)勉強と学問の密接性

 講義のプリントで、「勉強と学問とはむしろ正反対のものである」と述べていたが、あからさまな正反対ではないと私は考える。勉強も学問もこれからの人生において欠かすことのできない重要なものである。勉強によって身につく「問いに対する答えを学ぶ」ことも、学問によって身につく「答えの確定していない新たな問いを発する」こともどちらもこれからの人生で重要な役目を果たすものである。

 また、この講義プリントでは、勉強を否定し、学問を尊重していたが、これは今の日本人が、新たな問いを発することがおろそかになっているためにこのような対比を使っているのだと私は考える。確かに今の人は、与えられたことをこなすのには十分な能力を持っているが、自分から進んで発展していこうという人が少なくなっているのは感じられる。

 しかし、学ぶということは発展してこそ意味があるものではないだろうか。問題を解くことと問題を見つけることは同様に重要である。解く力は問題がなければ意味がないのだ。だからといって問題定義ばかりしていても意味がない。勉強と学問、解く力と問いを発する力は密接な関係を持っているということが私の考えである。

 

(2)学問生活の目的

 学問生活をグラフに表したことについて、私は目標を見つけるまでが学問を必死にやる時期ではないかと思う。なぜなら人生を決めるような目標を見つけた時点で、その目標を達成するための努力というものは苦痛に感じないからである。それはすなはち生の躍動と目標への努力の同一である。

 もちろん努力をせずに目標を見つけ、そして初めて努力をするというパターンもまれにあるが、やはり基本的には目標とは見つける努力をしないと見つからないものである。

 ただ、すぐに達成してしまう目標を立てることはやめたほうがいい。当たり前だが、たった1,2年で達成してしまうような目標はただの通過点であり、人生の目標とは異なったものである。しかし、人生を目標に向かって進んでいるという人ははっきり言ってほとんどいない。人生に目標、生きがいのない人もいるのかもしれないが、やはり希望した仕事に付けないという人がほとんどである。

 しかし、目標をもって努力してきたという事実、自信というのは決してなくならず、誇れることではないか。そして報われないなりに必死に学問を学んで身に付けた知識や経験は少なからず役に立つのではないだろうか、と私は考える。

 

・自己否定について

 ・自己否定の捕らえ方

 自己否定について、講義では自己否定をすることによって自分をどんどんダメな人間に自分で陥れているとあったが、私は自己を否定することと向上心を失わせるのとは繋がらないのではないかと考える。この場合の向上心を失わせるものは、自分の無知にあきれ、卑屈になってしまうことである。そして、卑屈になると人の助言は聞き入れようとせずに、自分で立ち直らない限り卑屈になった対象について完全に道を閉ざしてしまう。はたしてこのようなケースを自己否定というのだろうか。いわないだろう。

 自己を否定するということは、他人の意見を尊重するということではない。他人の意見を受け入れて新たな自己を形成するということである。相手の意見を自分の考えに容易に取り入れることができる人は知的好奇心が尽きることはない。なぜなら、常に相手の思想を柔軟に受け入れることができるからである。

 自己の否定によって自分をダメな人間にする場合というのは、自分の失敗やダメなところを公言してしまう場合である。このような人は回りに自分のレベルを認識させて後々起こるかもしれない自分の挫折において、他人に卑下されないための保険をかけているのだ。そして保障がある人間は少なからず向上心が薄れるものだ。

 それに対して公言しない人は、他人より劣っているという危機感をもち、向上しようという努力を持つ。それに伴って知的好奇心を持つ機械が増える。自己の否定を公言するとしないではかなりの差ができるのではないか。そして自己否定とは、決して自分をダメにするだけのものではない、と私は言いたい。

 

・「本を読む」ことについて

(1)本を読むという行為の意味

 本を読むという行為は読む人の意識によってその人に対する影響がかなり変わってくる。当然読む人の意識はさまざまである。暇つぶしから自分の学びたい分野の知識を得るため、また学びたいことを見つけるための行動といろいろである。だが本を読む理由に関わらず書いてある文章、またその文章の指し示す意味などをすべて把握しようとするのは無理である。時間をかければできるかもしれないがそれこそいろいろな資料を集めなければならず手間がかかってしまう。

 本を読むといえるのは、その本の内容を思い起こすことが出来るかどうかだと僕は考える。それがどんな小さなことでもいいから、その本の名前を聞くだけで連想されるものがあったらその本を読んだことになるのではないか。どんなにすばらしい内容の本でも読んだことによって得た知識を実感しなければ意味がない。よい印象でも悪い印象でも本に対して感情を持つことは知識の実感に繋がるのだ。

(2)集中力と情報

 本を読むという行為は、周りの情報を得るために必要なことである。しかし、その情報を常に維持するためには、常に本を読む習慣を身に付けなければならない。それは簡単に身につくようなものではないが、その習慣に慣れると呼んでいるジャンルについての知識が自分の中で確立されてくる。そうなると違うジャンルに手を出して、新たな情報を手に入れ、確立させる。本を読むとは、最終的には自分のための情報を手に入れるための手段にほかならないのだ。

 ただ、ある程度のレベルの情報を手に入れ、自分のものにするのにはかなりの時間と本を読むことに対する集中力が必要不可欠である。本を読むことに慣れるということは

本を読むときの集中力の持続に慣れるということである。そして集中して読んだ本から得る情報は集中に慣れていないときに読んだ本から得る情報よりもより洗練されているのだ。

 

・議論について

 他人を「否定」するか「利用」するか

 私の考える議論は、他人の意見を否定することは重要でなく、自分の考えにどれだけ他人の考えを取り込み、より自信を持つことができるかが重要な部分になっている。他人の考えは、話題をより深く追求したとき自分とまったく同じであることなどありえない。議題にするような話でないときは別であるが。

そのような場合を除いて他人の意見と自分の意見との相違が出てきたときに行うべき議論の方法とは、他人の意見との相違点に基づいた自分の意見の詳しい説明や主張を中心に議論を進めていくことが大事である。

相手の意見を批判する立場の人の大半は、具体的な自分の信念を持たずに批判ばかりしつこく行うものである。批判をするのは議論を盛り上げるもので悪いとは言わないが自分のためになるといったらそうではない。最初に述べたが、議論というのは自分の意見と相手の意見をぶつけあい、主に相手の意見で参考になった箇所を自分の考えに取り入れるのが目的である。決して相手の意見をつぶすのが目的ではない。批判するなら批判するなりの正当な、誰にもとがめられることのないような意見をひっさげて批判するぐらいの意気込みが欲しいものである。そこまで頭をつかわないと、議論の意味がないし、意見を取り込む実感もわいてこないのではないだろうか。

 

感想

 この「学問の技法」は、私に新しい知識をたくさん与えてくれた。特に議論の仕方やレポートの書き方、自己否定の捕らえ方など非常に興味深い、または今後のためになる分野で私の知識を増やしてくれた。これからの人生の中でこの講義で学んだことは必ず役に立つことだろう。むしろ役立てていきたいと思わせる講義だった。

 

 

 

 

学問の技法レポート第1回

05040058 梅田勇太

 

1 個人的な感想

 大学の授業を受けてまず初めに思ったこと、それは授業の進め方が下手な人が多いということだ。内容が良くても教え方が下手だとその授業はつまらないものとなる。講義は単位を取るためだけに出席しあとは本を読んで自力で勉強する、と割り切ってしまえばいいのかもしれないが、それでは大学に行く意味がない気がする。そこで教養専門の先生を置いてみてはどうか?それが無理ならせめて講師には授業の進め方についての訓練を義務づけるとか。そうでもしないとリベラル・アーツ教育の実現は無理ではないか?

2 大学改革案について

 批判するべきなのだろうが、私は基本的には賛成である。特に教養を充実させることは絶対に必要だと思う。受験の点数や回数については後から調整すればよい。バランス調整は実際にやってみないと難しいし、事前に完璧な予測を立てるのは不可能だ。何よりも肝心なのは現在の大学の悪しき点を改善することであって、方法や手段は試行錯誤しながら決めていくしかない。もちろん失敗する可能性はあるが、それは事前に十二分に検討した場合でも同じだ。今よりもよくなる可能性があるならば、まず実行してみるべきである。

3 イラク人質事件

 大学とは全然関係ない。自己責任論というのが話題になっているので、それについて。人質になった3人はわざわざ危険なイラクに行って捕まり、たくさんの人に迷惑をかけた、というのが自己責任論の主旨らしいが、それは完全に間違っている。イラクが3人にとって危険だったのは自衛隊がイラクに派遣されたためであり、3人は被害者だ。それを自衛隊派遣を決めた当人達が批判するのは、まさに盗人猛々しいというやつだ。さらに腹立たしいのは、政府が人質解放に関して何の役にも立たなかったことだ。事件後に自分達はさも活躍したかのように振舞ったが、あれは完全に嘘である。具体的に政府が何をしたのか明かされていないのがその証拠だ。実際に人質解放の鍵になったのは、イスラム聖職者協会の働きと3人のイラクでの活動内容だ。思うに今回の自己責任論はメディア・コントロールから生まれたものであると思う。自衛隊撤退論がこれ以上強まるのを防ぐためにいち早くメディアを通じて保守派に有利な言説を流し、実際に成功したわけだ。まあ根拠はないしただの買い被りかもしれないが、そういう可能性もあることに気づいてすらいない人が多いようで非常に憂鬱である。

 

学問の技法レポート第2回

05040058 梅田勇太 

 私は、学問と勉強とは相対するものではないと考えている。狭義の学問とは過去から蓄積された知識の体系を指し、それを学ぶ作業のことを勉強と呼ぶ。そして過去の知識を学びそこに新たな知識を付け加える一連の作業のことを広義の学問と呼ぶ。学問とか勉強といった言葉はおおよそこのように使われてきたと思う。学問と勉強は違うと言われるときの勉強というのは受験勉強のことだ。受験勉強はあらかじめ決められた答えを導くためのテクニックを磨くだけの作業である、とすれば確かにそれは学問と同一ではない。でもそれは学問と勉強が正反対の概念であるとする根拠にはならない。なぜならここでいう受験勉強は、勉強という作業の多用な面のうちごく一面だけに光を照らしているからだ。勉強というのは決して受動的でつまらないだけのものではない。むしろ能動的で楽しいものだ。

 たとえば、暗記と理解は勉強のなかの一作業だが、この二つは似て非なるものだ。何かを理解するということは、自分の知っていることとその何かを関連付けることだ。関連付けることでその何かの位置を決定してやるのである。この関連付けるという作業はきわめて能動的だ。これに対して暗記はこの関連付けの作業がない。既存の知識と結びつかないため記憶の持続も極めて乏しく、受動的だと言わざるを得ない。では受験勉強において理解と暗記どちらが重要か?言わずもがな理解である。暗記だけで大学に受かるならそれも一種の才能と言えようが、普通の人にはできないし、またそんな能力を大学も求めていない。つまり受験勉強だって完全に受動的なものではないのだ。

またこれは個人的なもので他の人には当てはまらないかもしれないが、勉強が楽しいことも多々ある。「十有五にして学に志す」とは孔子の言葉だが、私は十七歳のときに勉強がすごく面白いと感じ、「学に志す」とはまさにこのことだろうと思ったことがある。倫理や評論文は人間や世界に対する考えが博覧会のように並んでいて、自分の考えてきたことと比べてみることができるし、小説は日本語の新しい使い方を学ぶことができる。また英語は日本語以外の世界の捉え方を知る機会になり、世界史や地理は自分の世界観を広げ確かな枠組みを作るのに役立つ。こういうことを考えられるようになると俄然勉強が楽しくなった。

このように勉強は決して受動的でつまらないものでも学問と正反対のものでもなく、むしろ学問につながっていくものだと思う。そして大学に入ってする学問とは、知識を学びそれらに対して自分の考えをつくることの繰り返しなのだと思う。

 

学問の技法レポート第3回

05040058 梅田勇太 

 【逍遥学派になろう】と【背筋が勝負である】には二つの思索スタイルが示されている。何か一つのことについてじっくり考えを深めたいならば、机に向かって集中する後者がよろしい。一方突飛なアイデアを思いつきたいならば前者がよろしかろう。アイデアというのは全く異なる分野の事柄同士が結びついて生まれることが多く、外の様様な刺激を受けることはその結びつきを促進させる(と私は考えている)からだ。この両者を上手に使い分けることができれば、理想的な知的生活を送れるだろう。ところで、私には考え事をするときに部屋の中をぐるぐる歩き回る癖がある。小さいころから無意識にやっていることなのだが、これは机に向かって集中するスタイルの変化形だ。基本的に部屋の中をうろつくだけなので五感に与える刺激は乏しいが、歩くことで足の裏を刺激して脳の働きが活発になり、わずかながら運動にもなる点は逍遥学派の長所を取り込んでいる。だから、机の前に集中していられる強い精神力の他に、ぐるぐる歩き回れるだけの部屋の広さが知的生活には必要なのではないか。立花隆氏などは部屋には机と本棚以外に椅子を置くスペースさえあればよいと言っているが、私はそれに歩き回れるだけのちょっとしたスペースがあればもっとよいと思う。

シニシズムが「反骨主義」から「権威寄生的な冷笑」に変化するというのがよくわからない。私は自分を「反骨主義」者であると思っているが、年をとると「権威寄生的」になってしまうのだろうか。右傾化の進んでいる現状を見れば納得できなくもないが、それが自分にも起き得ることであるとは考えにくい。しかしこの転落が本当に誰にでも起き得ることならば、十分に警戒しておかねばならない。

大学入試に美術と音楽を組み込むことには賛成できない。AO入試の一つとして組み入れるならばともかく、英語や数学と同列に扱うことは不可能だ。点数化できないからである。猿が描いた絵をそうとは知らない美術家たちが絶賛したり、絵を逆さに展示していたのにしばらく気づかなかったりしたことからわかるように、芸術の評価は難しい。それを芸術とは関係の無い大学の入試でやったりしたら、かなり不公正な入試になるものと思われる。感性を磨かせたいのなら試験以外の方法を選ぶべきであろう。

 

学問の技法レポート第5回

05040058 梅田勇太

 多読術について。「拾い読み」と「とばし読み」の違いがよくわからない。「拾い読み」は「とばし読み」と違って、主旨を把握することが目的ではないということだろうか。もう少し違いがわかるような詳しい説明があるとよい。それと自分が読まない本を友達に勧めるのはどうか。読まないという方法もよくわからない。買い惜しみするな、ということなら異論はないが、読まないことが多読とどう結びつくのか。もう少し詳しい説明がないと、単なる思いつきのように見える。もし思いつきの域を超えないのなら削除すべきではないか。渡部昇一の『知的生活の方法』でも最後の方で、ワインがよくてビールは駄目だとかわけのわからないことを書いているが、きちんと他人にわかるように説明できないなら、むしろ書かないほうがよいと思う。何かを羅列している文章では、後半になるほど思いつきのようなことが書かれていることが多い。

 

学問の技法レポート第6回

05040058 梅田勇太

議論をするときに思想家の考えを持ち出すのは良いことだと思うが、それを自分の意見とするのには反対だ。どれだけ貧弱な意見でも自分の意見を持つべきだ。「ニーチェ曰く」とか「マルクス曰く」というように思想家の意見を持ち出すときは、ある問題に対する思想家の意見を挙げて参考意見としたり、その意見を批判してさらに議論を深めたりするべきで、思想家の意見を自らの意見にすりかえるのはよくない。もちろん思想家の観点に立って議論する(ロールプレイング)ことで新しい考え方を見つけることができるかもしれないから、思想家の観点に立った議論というのも必要かもしれないが、ある思想家を盲信してその考えを自分の意見と同一にしてしまうのはよくない。

 

 

学問の技法まとめ

法学部 一年 15040019 佐川 祐喜

 

大学の法人化に伴い、大学の入試や経営の仕組みが変わるということがありうる。授業では国立大学の入試制度や経営の方法の変化、Vip制度や聴講生などが上げられた。しかし、それが本当に実用に向いているのかどうか考えたい。

授業では大学での入試制度が大学に入学するための入試と三年次に進級するための入試という二つに分かれ、受験資格を高校一年生からにするということだった。この入試では入学のための試験は簡単になるが、三年次に進級するための試験は難しくなるという予想が立てられる。そのため三年になれない浪人生が増え、社会に出て行く年齢が上がってしまう。しかし、確かにそれで専門的な知識を備えた大卒者が増えるかもしれないが、就職先の企業などは必ずしも専門知識を得ているが年齢のいってしまった大卒を求めるとは限らない。むしろ多少の必要な知識を会社で教え、若いうちから使ったほうがいいと思うのではないだろうか。年齢と学業の折り合いをどうつけるかが課題になると思う。

 また、経営についても考察してみたい。一、二年次の大学の吸収合併が挙げられたが、しかしそれは国立大学ではありえないと思う。国から補助を受けている以上合併は無理であろうし、補助がなくなればそれはもう国立大学ではない。しかしここではそれが成り得たとして考えてみたい。まず、間違いなく一、二年次は人気のある大学に生徒が集中すると思われる。すると人気のない大学は明らかに経営が成り立たなくなるだろう。授業ではそういう大学はVip制度を導入して生徒を集めればいいとのことだったが一、二年から収入がない大学がVipのために出せる金があるはずがない。経営は成り立たない。一方生徒が集まる大学ではいくらでも金は集まるだろう。しかしそれゆえに受けたい講義が受けられないのでは大学に入った意味があまりないのではないのだろうか。それでは一、二年修了者にあたえる短大卒の肩書きに価値はない。ここで出したいのが聴講生である。聴講生はうまく使えればなかなか便利な制度になりうる。大卒の資格を得られないだけで大卒者と同じ能力を発揮してくれれば言うことはない。しかし聴講生にも問題がある。まずどうやってその講義を習得したと証明するのだろうか。テストを受ける権利を与えなければ証明が難しい。また、大卒者と同じ待遇がなされてしまうと大学に入る意味がない。その調整がなされない限り特に法人化された大学では見込みはないだろう。

このように、制度を授業の内容のように変えるのは大変難しいと思う。しかし、いくつかの案は改善されれば大変便利になるというものもある。そのような案をうまく実用に回せるようにすべきだ。

 

今回の学問の技法では、先生が今後出版される草稿を読んで学問を学ぶ上でのさまざまな技法について学びました。今回一番印象に残ったのは、学問と勉強は違うということでした。僕もそう思います。やはり、勉強は、なにか学校でやらされる、受験のためにやる、というイメージがあります。そのために継続して続けることが難しいのではないかと思います。どこか、やらされているという気持ちがあれば、長続きがしないのはやはり当然であり、ひいてはやっても、ただやっているだけで身につかないこともあります。しかし、学問は自らすすんでやるものだと思います。自分で探求したいことを見つけ、進んでやるべきものだと思っていました。しかし、ひとつだけ思っていたことと違う点は、学問は「まだ答えの確定していない問いを発すること」であり,勉強は極端に言ってしまえば学問をするためのものだということでした。その点についてはよく理解できません。理解できないというよりはそのような考えを持ったことが無いので、はじめてそのような意見を聞いたというのが本音です。まだ答えの確定していない問題がどのようなものなのかつかめていないのでよくわかりませんが、ようはやはり何か自分の考えをを突き詰めていってその先で得られる何かなのではないかと思います。

 また、もうひとつ気になったことがあります。それはやはりあのグラフです。自分の目標や生き方によってがんばるタイプや好きに生きるタイプに分類されるグラフは面白いと思います。また、自分で自分がどのように生きたいか目標を決めて、あっちに行こう、こっちに行こうと調節して目標を目指すというのがよかったです。しかし、個人的な感想を言えば、じぶんは規律訓練の壁を越えたことが無いのではないかと思います。ガンバって人生で一度くらいは超えてみたいと思います。

 

     知性と感性について

                             15040019 佐川 祐喜

 大学の授業で芸術の授業を取り入れたほうがいいとの意見があったが、私はその意見に反対である。私は大学にまで芸術の実技の授業はいらないと思う。高校までは音学や美術などの授業があった。しかし、それらの授業が果たして大学に入ってまで勉強して役に立つかどうである。もちろんまったく役に立たないなどと言う気はないし、確かに感性を磨くのも必要なことであるので高校までの授業をどうと言う気はない。ただそれを大学に入ってまで必修にしなければならないものかどうかである。

私は最初に言ったとおり反対である。まず理由の第一点に大学の授業で取り上げたからといってどうなるのかということである。まず、個人的な感想になるかもしれないが、芸術の授業というものは、やらされてやっているという感が強いのではないだろうか。つまりほとんどの場合、積極的にやろうという意気が見受けられないのである。やっている人にはそのようなことはないであろうし、この意見には反対であろう。しかし、多くの人は、仕方なくやっていると思った経験があるのではないか。そんな具合の授業を大学に取り入れてもあまり意味を見出せる人間がいないだろう。

また、本文中にあった収入はあるが、文化的に最低限の生活を送っている人とあったが、別にそれで満足している人もいるだろう。むしろその方が多いと思う。別にそれでいいではないか。その人に必要のないのものを無理やり詰め込んでも何の意味もなさない。ただこの意見に誤解のないように言っておくと、別に人がまったく芸術に興味がなく、誰もまったく芸術活動をしないというわけではない。その人が自分で必要なだけ好きにやればいいと言っているのである。芸術は本来そのようなものではないだろうか。好きなときに、好きなようにやればいいのだ。本を読みたくなれば読み、絵を描きたくなれば描いて、歌いたくなれば歌えばいいのだ。授業の枠に収めて、半機械的にやるのは間違っていると思う。

確かに、知識一辺倒というのもまずいのは当然である。しかし、そうさせているのはやはり日本の環境ではないだろうか。極端な例では、子供のときから受験、受験と勉強ばかりやらされて、文化、芸術に目がいかなくなってしまっている。さらに、学校の授業でも積極的にやろうとは思わないのでは、文化、芸術に触れる機会がない。芸術に触れるということ自体は勧められるべきことだし、心にとってもいいことである。ただ、今の状態のまま大学の授業に取り入れてもたかが知れているし、取り入れる意味がない。まずは、みんなの芸術への意識を変えさせてからでないと仕方がないだろう。まず考えるべきは、芸術に対する環境を変えなければならない。それがなされない限りは芸術の授業を取り入れるなどは反対である。

 

読書について

15040019 佐川 祐喜 

 読書することについて、確かに現代人は読書から離れているように思う。しかし、本文にあった読書リストを作ることによって人の意識が変わるかどうかは正直疑問だと思う。これから読みたい本など上げさせても本当にその人の読書に対する意識が変わるかどうかは、あまり変化がないのではないかと思う。なぜなら、それまで本を読まなかった人はこれからどんな本を読んでいいかわからないからだ。私も昔何年か本を読まなかったときがあり、その後にどんな本を読んでいいかわからなかったことがある。そのときは面白いと親が進めた本を読んでみてまた読書の楽しさを思い出したが、普通そういうアドバイスがないとどんな本を読むと面白いかなどわからないだろう。そういう人はせっかく本を読み出してもいきなり難しい本を読み出したりしてまた挫折したりするのではないだろうか。また、これまで読書をしてこなかった人は、読書をすることはいいことだと思っていても、今まで読書をしてこなくても大丈夫だったのだからこれからもする必要はないだろうと考えることがあるのではないか。あるいは時間がないから時間があるときになどといって結局はしないというのがパターンである。これらの人には読書への意識を根本から考えさせる必要があるのではないだろうか

 何のために読書をするのかという問に関して3つの答えが上げられているが、そんな答えが本当に必要だろうか。私は何のために読書をするのかと聞かれたとしたら、読みたいから読むのである、という答えでいいと思う。というかむしろそういう答えが返ってくるようなものでないとすぐに飽きてしまうのではないだろうか。この答え方は本文にあった@の答え方に非常に似ているだろう。また、Aの答え方にあったのは読書ではないと思う。これは自分に必要なことを学ぶ勉強に分類していいのではないか。もしくは、そういう勉強的な読書をするなら@で本を読む楽しさを知っていたほうがいいと思う。Bの場合、いちいちそんなことを考えていたら読書がただの利益をもとめる物になるおそれがあるのではないか。それは本文でも憂慮されたことであったはずだ。そんな方を考えながら読書はするべきではないと思う。損得抜きで本を読むべきであろう。

 読書をすることは人生の上で非常に有益なことだと思う。現代の人はもっと読書に興味を持って、読書を楽しむべきだ。

 

議論について

15040019 佐川 祐喜

 

 議論することは、私たちが社会に出たり、人とのあいだで上手な生活を送ったりする上で重要なものだ。当然社会に出ては議論を避けることはできないし、生活の上で必要なこともある。さらに、国際社会になり他国の人との議論の機会も増えるだろう。

 しかし、レジュメにある通り日本人は議論が苦手である。よく聞く話では、日本人が西洋人に混ざって議論をすると日本人は一言も発せないこともあるという。それはなぜだろうか?やはりレジュメにあったように、日本の習慣が関与しているだろう。日本人はおしゃべりな人を軽蔑するとあったが、それは大いに当てはまると思う。さすがに現代になってそこまではいかないにしても、西洋に比べればまだまだといえる。

 また、日本人と西洋人には議論の方法に違いがあると思う。西洋人は思ったことをすぐ口に出し、その意見にまたすぐ誰かが意見をかぶせる、といったように休む間がない。これに比べて、日本の議論は実にスローモーである。誰かが意見を述べるとそこでいったん議論がとまり、その意見をよく咀嚼してから自分の意見を述べる、というのが日本の議論の方法である。だから日本人は議論についていけないのである。

 だからといって日本の議論の仕方が悪いのかといえば、そんなことはないだろう。日本の議論にも長所、短所がある。長所は、よく考えることができるところだ。自分の中で意見をまとめ、納得する意見を言うことができる。短所はやはり議論の進みが遅いところだろう。考えた末に結論が出ないようなこともある。そして、どういう方法がいいかとは一概には言えない。

 ではどうすれば議論がうまくなるだろうか。やはり普段から議論に慣れておかねばならないだろう。議論に慣れるといっても普段からできることといえば会話くらいしかないだろう。普段から意識して問答をすれば議論にも役に立つのではないだろうか。

 また、やはり日本人の中に多少なりある発言しない癖を直すべきだ。議論になったら何か発言してやろうという気概で臨み、発言が的を外れても恥ずかしいなどと思わないことだ。そして気になるところはどんどん指摘し納得いくまで突き詰めてみるべきだろう。そのようにしてみれば議論をする力が向上して、さらに積極的に議論に参加でき

 

 

鈴木見世 15040109

1回目レポート「大学進学は贅沢だ!」

 まず、大学では講義を聴いてノートをとる形式の授業が多いので、今日(4月30日)のような発言型の授業は新鮮で楽しかったです。今日の授業でひとつ気になったことがありました。それは入試制度云々以前の話ですが、我々は大学進学をあまりにも当然のことと思っていないかということです。ここからは少し私事で申し訳ないのですが私は前回ちらりと話したように、一度大学選びを間違えてしまった者です。このことに関して自分はすごく親不孝だし、わがままだし、人にものを言える立場でないのですが、この経験から学んだことがありました。大学進学は贅沢であるということです。私は高校までは勉強と部活中心の生活で、特に高校は進学校でまさに勉強中心でした。 その中で、小学校〜高校大学就職というのが当然の人生コースだというように思い込むようになっていました。しかし、前の大学を退学し一度学校などの勉強中心の世界を離れたときに視野が広がりました。自分はもう経済的な自立が可能な年齢であること、今まで勉強できたのは親のお金のおかげであること、勉強は世界の一面に過ぎないことを強く感じました。大学進学は、立派に労働力となりうる体を持ちながら、お金の大部分を親に頼って勉強する道を選ぶことです。私は一度失敗しなければこのことを理解できませんでした。これを理解したとき、大学進学は本当に贅沢だと思いました。親のお金によりモラトリアム期間が与えられているという意味でも。しかし贅沢だと知りながらも、どうしてももっと勉強したかったので、あと親が「一度だけならやり直してごらん」といってくれたので、あえて再び大学進学の道を選びました。だからこれから楽しく有意義な大学生活を送って、いつか盛岡に帰ったときに親に「北大楽しいよー!ありがとう!」と言いたいです。

 最近大学生の質の低下や、学問への熱意の薄弱化が言われることがありますが、それは大学生という身分が贅沢だと知らずに進学する人が多いためだと思います。今後どんな入試制度になったとしても、「ただ働きたくないから」とか「なんとなく」といったモラトリアム期間を延長させるためだけの理由で進学する人が増えなければよいなあと思います。

 しかしながら、上記のような気持ちとともに、自分が大学で勉強している間に、同じくらいの年代の人で働いてお金をかせいでいる人がいるということへの劣等感というか焦りのような感情もあります。大学進学という贅沢をしながら、稼ぎたいという気持ちを持つとは身の程知らずなのかもしれません。(ここでいう「稼ぎたい」とは、単にお金がほしいということではなく、経済的に自立したいという意味です。)しかし、だからと言ってアルバイト中心の生活にしてしまうと、お金を稼いでも所詮学生なのですから、学業も稼ぎも中途半端になってしまうだけです。大学生のうちはこの気持ちのバランスをとることが大切だと思います。親からの仕送りまたは小遣いのお金でありながら、もらった金なのだから何に使っても自由だと、それでたばこや酒を買ってだらしなくなる人もいます。かたや、バイトをして生活費は稼いでいるが、バイトのために講義に参加しない人もいます。大学生ともなればいろいろな面で制約がとれて自由になれますが、このような生活はどちらも感心できません。今は、幸いまだ大学生活が始まったばかりでこれからどうにでもなる段階です。どのような学生生活がよいのか模索しながら、4年間後悔しないように過ごしたいものです。

 

第二回レポート「パトスを持つには」         15040109鈴木 見世

前回のレポート、自分では結構書いたつもりだったが、実はぜんぜん字数が足りていないことが判明した。今回からはきちんと原稿用紙に下書きしようと思う。

 大学に入学して約一ヶ月が経った。振り返ると「何かをしたいんだけど何をしたら良いのかわからない」という状態でずいぶん漫然と過ごしてしまった気がする。受験が終わって気が抜けたということは全くないが、大学生活(学問に限らず)のどこから手をつけて良いのかわからないという状態である。授業での先生の「学問をはじめるにはパトスが必要」という言葉で少し目が覚めた気がした。早く漫然とした状態を脱却してパトスを持って大学生活を送りたいものである。

 しかしながら考えてみると、学問をはじめるパトスは誰もが簡単に持てるものではないような気がしてきた。もし大学生の大部分が学生時代にパトスを見つけられて各々の学問に精力的に取り組めたら、日本の学問はきっと体系的にもっと繁栄するだろうが、現実は必ずしもそうではない。それはなぜなのだろうか。  

 思うに、その原因は「勉強」のスタート地点にあるのではないだろうか。ここでいう勉強とは、学問とは別の高校までのテストや受験を中心としたもののことである。多くの人は小学校に入学して初めて勉強をスタートする。そこが一番肝心な時期だと思う。この時期に自分から勉強に取り組む姿勢を身につけられれば、後に大学へ通う年齢になっても意欲的に学ぶことが苦にはならないだろう。勿論若いころは勉強嫌いでも大学生になってから突然学問に目覚めるという人がいることも確かだが、学ぶことへの意欲に関しても「三つ子の魂百まで」が当てはまるように思われる。ところがこの時期に、子供がとにかく勉強しさえすればよいと思って子供をお金や物で釣ったり、本人の意思を無視して無理やり塾に入れたりする親がいる。純粋に考えて、褒美としてもらうお金やおもちゃと勉強には何ら因果関係は無いわけだし、このやり方では人にやらされなければ何もできない人間になってしまう。学問と勉強は概念的にほぼ対極に位置するという話があったが、両者は自分から意欲的に取り組まなければ楽しめない点では共通である。それゆえこのやり方で勉強してきた(させられてきた?)人は大学に行っても学問をはじめるきっかけとなるパトスを見出しにくくなるのではなかろうか。近年塾がずいぶん繁盛しているのを見るにつけても、このような人が増えているような気がする。そう言えば自分は塾のバイトの採用通知を受けたばかりである。以上のことを考えると、お金を稼げるのは嬉しいが素直に喜べないような気もしてきた……

 

第3回レポート「若い時期を大学で過ごす意義」 鈴木見世15040109

 前回(521日)の授業では初めて班で討論する時間があっていろいろと意見交換できてよかった。その討論の中で「大学は就職とか資格試験にもっと対応した方がいいのでは?」「就職とか資格試験のことだけ考えるなら、専門学校に行ったほうが良かったんじゃない?どうして大学に来たの?」という話になった。私はこのやり取りを直接していたわけではなかったが、考えさせられた。確かにそうである。大学生の中で就職や資格の事を気にする人は多いが、就職とか資格の事なら専門学校の方が親切に対応してくれるはずだ。最近では専門学校の種類も増えて、公務員などの難関試験にも対応できるようになっている。それなのに、なぜ大学を選ぶ人が相変わらず多いのか。確かに職種や企業によっては大卒の資格が必要という条件が必要な場合がある。しかし、ではみんな大卒の資格ほしさに進学するのかと言えば、そうではないように思える。となれば、多くの人が大学に進学するのは、就職や資格取得以外に大学生活に求めるものがあるからだといえそうである。
 前回の授業があった日、この事をさらに考えさせられる出来事があった。大学を出て歩いていたら、大きな交差点でバイクと車が衝突したらしく、バイクの人が道路にぐったり倒れて周りの人が駆け寄って救急車を呼んでいた。倒れていた人はぜんぜん知り合いでなかったしその人が若いかどうかもわからなかったが、なぜか突然「若さも人間そのものも一瞬で滅びうるのだ」と言う考えが浮かんで胸の中が底冷えしてしまった。その人無事だと良いです、本当に。この出来事から「生きていることと若いことの貴重さ」を実感し、「貴重な若い時期を大学で過ごす意義」と「若い人が何を求めて大学に入るのか」を考えてみた。               
   私自身について言えば、進学理由として、「楽しい事を見つけたい」(→もちろんその対象として学問も含まれる)というのが大きいと思う。○○を学びたい、研究したいという具体的な進学理由を持つ人に比べれば、ずいぶん漠然とした理由かもしれない。資格や就職ももちろん気になるところだが、大学で比較的拘束されない時間を過ごすことでその後の人生を変えられるような楽しい時間を見つけたいと思ったのだ。                                
   ここで、自分が考える「大学像」(←理想像という意味ではない)と大学生のメリット、デメリットを挙げてみたいと思う。
<
大学像、大学生のメリット>
・高校まででは学べない分野を学べる
・さまざまな出身地、経歴の人と学べる
・まだ勤めていないという点で経済的な面を余り気にせず好きな事(スポ-ツや学問)に没頭できる
・思い切った事(旅行とか留学とか)をしやすい
・アルバイトなどを通じて広く社会と関われる
・自由に学べる(模試や宿題に追われっぱなしでない点で)
<
大学生のデメリット>
・金銭面で親にまかなってもらっている場合、金銭面で依存的になりやすい
・「学生だから」と言う言い訳で、同年代で働いている人よりも社会的責任意識が薄れる場合がある
・学校側から拘束される事が少ないのをいい事にだらしなくなる人もいる
 以上が私が考える主なところである。他の人が大学をどう捉え何を望んで進学するのかもぜひ聞いてみたい。
 最後に、入学してから今までの学校生活で思うところを書いてみたい。私は今のところ大学生活に大きな不満は無い。その理由に、一般教養でさまざまな授業が取れることがある。私は以前、教職免許を取る大学にいた。そこでの授業は免許取得に必要なもの以外無いといっても良く、本当にまさに単位のため、資格のためという感じだった。毎日の授業で顔を合わせるのも同じ教科の免許を取る特定の人だけであり、向上心や好奇心を持って生活できなかった。北大の一般教養について、「何で学部とは関係ない授業とんなきゃいけないの?」「はやく学部の授業やった方がいいじゃん」と言う意見も聞くが、一般教養の期間は学問するために絶対必要だと思う。いろいろな授業を取れるありがたみを忘れずに、その中から興味のあるものを見つけて、4年後、自分なりに「学問した!!」といえるようになりたい。

 

第4回レポート 15040109鈴木見世「読書嫌いの視点から」
 最近、授業のほうは本題ともいえる読書論に入ってきた。読書には親しみのない私にとっては少々つらくなってきた。本来ならばプリントや前回の授業について批判や自分の意見を述べられれば良いのだが、それは難しいので今回はプリントの内容にこだわらず「読書嫌いの一般論」と「読書と時間」について書いてみた。

「読書嫌いの一般論」
 プリント38ページの平均的な読書量を見てもわかるように、すべての人が年を重ねると共に読書の楽しみを見つけられているわけではないようだ。読書好きもいれば読書嫌いもいるだろう。以下に読書嫌いの人が読書に対してよく言うことを挙げてみる。
・文字ばかり読んでつまらない
・本を読んで一人で過ごす時間がもったいない
・人(著書や作者)の意見を受け入れられない  「他人の考えとか読んでどうなるのさ?」という感じで
・読書=暗いイメージ
・実用書ならともかく、読んだ内容がすぐに生活に役立つわけではない
・すぐ飽きる、時間の無駄
 あまり読書嫌いについて分析するのも発展性がないが、こうしてみると読書嫌いは本や読書に目に見える形の利益を求めるところに原因があるようだ。
 上に挙げた例は今までに、実際に読書嫌いの友人などと話していた時に聞いたものである。これは私の推測だが、最近では「反応がないこと」も本離れの原因になっているのではないだろうか。「反応がない」というのは本側からの反応がないことである。電子メールやネットの掲示板でのやり取りに慣れた現代人の中には、対話型で無い物に物足りなさを感じる人もいるのでは?しかし、考え方によっては本側からの反応がないからこそ想像力や思考力を働かせて読書を楽しめるのだとも言える。
「読書と時間」
 以前の討論で散歩についての話が出た。その中で「予め何分間・何時間散歩するって決めたら楽しめないよ!それじゃあただのウォーキングだよ」という発言があったが、散歩と読書は似ていると思った。読書も「(予め)何時何分まで読書!」と決めたらあまり楽しめない気がする。読みたいとき、読みたいだけ読むのがいいのだろう。そこから考えると学年が上がるにつれ読書量が減っていくのも納得できる。勉強(ここではいわゆるテストや受験のためのもの)は時間と大きく関わっている。例えばテストやプリントをやるのに制限時間があったり、小、中、高校はチャイムによって学校生活自体が時間で区切られている。そういう中で生活していて、特に学年が進み受験勉強などで忙しくなれば、時間を気にせず読書をするというのは自ずから難しくなってくるだろう。
 以前の授業で学問と勉強の違いを取り上げたことがあったが、そのときは取り上げられなかった観点の一つとして、「時間との関わり」がある。勉強は上でも述べたとおり時間と大きく関わっている。しかし学問は、勉強ほど時間とのかかわりが大きくない。大学にチャイムがないことからも明らかだ。学問においては、時間よりも内容が区切りとして機能しているように思える。もちろん一日中同じことばかりやるわけにはいかないので大学にも時間割があるが
 そう考えると学問する場である大学と読書の相性はよいはずである。両者とも時間が区切りとして大きくは作用しない点で。

 

第5回レポート「多読のいろいろ」 15040109鈴木見世
 今回のプリントには、精読・多読のいろいろな読み方が紹介されていた。自分はあまり読書量は多くないが、どちらかといえば多読派かと思う。読書の習慣が身についていないため、一冊の本を読みきるのはかなり苦痛だが、本屋(特に大きな本屋)でいろいろな本を眺めるのは好きである。というわけで、今回は【多読の仕方いろいろ】について意見を書きたい。
【多読の仕方いろいろ】
1
、書店での拾い読み
上でも述べたが、私も書店で拾い読みするのが好きなので賛成である。書店にはさまざまな本が陳列している。書店に入ると「店の中のすべての本を自由に読む権利」のようなものを与えられた気がしてなんだか嬉しい。大きな書店に行くとよくこんな経験をする。例えば、普段は哲学に興味がないのに、さまざまな本の中にいるうちに突然哲学に興味が出てくることがある。そういうとき、哲学の本のコーナーへ行き気になるタイトルの本を手にしてみる。(このとき私の場合、多くは本当に手に取るだけか、目次や後書きを読むだけなのだが。)すると欲求が満たされたような満足な気持ちになる。このようなことは読書経験が浅いからこそ起こるのかもしれない。しかし少なくとも知的欲求が刺激される点でよいことだと思う。
2
、「拾い読み」「飛ばし読み」「試し読み」
→1
のところで述べた書店での私の行為はまさにこれらの読み方である。この読み方は本を評価するのに不可欠だし、仮にその本が読む価値のないものであっても「こういう本もあるんだな」と知れるだけで有意義だと思う。
3
、キーワードを読み解く
意見を述べるまでもなく、専門書の内容を理解するためには不可欠な行為である。
4
、数冊を同時に読む
読書中級、上級の人には効果的な読み方だと思う。ただ、最近読書をはじめた人がこれをやると、手を広げすぎて結局すべて中途半端になりそうだ。もしくは多くの本に手をつけ、自然とその中で気に入った1冊だけに偏っていきそうだ。それも悪いことではないが、数冊すべてを読みきるという観点から考えるとやはり初心者には難しいような気がする。
5
、再読する本を揃える
学術的な本や古典以外でも再読用の本があることはよいことである。4に関係するが、数冊を同時に読むより新しい本と再読の本を組み合わせるほうが読書の効率も上がりそうだ。
6
、積ん読する
積ん読の効果が得られるかどうかはその人の性格に拠るところが大きいような気がする。ちなみに私の場合は積んだ本もいつのまにか机の上で埋もれて終わってしまいそうだ。ただ、本を積むことに限らず環境が読書欲を左右することは確かだと思う。道路や店にいるより図書館や教室にいるときのほうが読書欲が沸く。
7
、理解せずに大量に読む
これも真の読書家になるために越えなければならない一線だと思う。タイトルを見て、「これは身体で覚える読み方だ!!」と思った。

8
、読まないという方法
これは余裕があればやってみたいある意味理想的な読み方だ。しかしながら幼いころに結構これをやって親に怒られた記憶がある「読まないんなら買わないの!!お金無駄でしょ!!」と。そのせいもあってか私は最近買う派から図書館派に変わりつつある。しかしやはり本を買うのと借りるのには違いがあるように思われる。お金をなるべく無駄にしない、かつより充実した読書の方法を考えてみたい。お金を惜しんでいる時点ですでに純粋な読書家ではないような気もするが。

 

第6回レポート 15040109 鈴木見世  「人付き合いの範囲を広げよう」
 今回のプリントは「議論について」が大きな割合を占めていたが、議論という言葉自体を久しぶりに聞いた気がした。今回は「日常生活の中で議論のきっかけをつかむこと」と、「会話の相手のバリエーションを増やすこと」について書きたい。
日常生活の中で議論のきっかけをつかむ
 私たちが普通に生活している限り、議論をするということはあるだろうか。日本人には事勿れ主義が多いせいもあって、普通の生活の中で議論になることはほとんどないように思われる。やはり議論をするには意識的にきっかけを作ることが必要であるようだ。プリントでは議論のきっかけを作る方法として、「意見をでっち上げること」と「質問をすること」が挙げられていた。私にはこれらに加えて「理由のある感想をもつこと」も有効だと思われる。しかもこれはより簡単な方法だと思われる。意見や質問は、意識的につくるにしろ相手の意見をきちんと踏まえる必要がある。しかし感想ならば、意識的になる必要すらない。人は何かを見たり聞いたりすれば、それに対して必ず何かしら感じる。もちろんそれがよい感想の時も、悪い感想の時もあるが。みんな必ず感じることがあるのだから、そしてその感想はひとつとしてまったく同じものはないのだから、それを口に出すことで議論に発展する可能性は大である。ただし、感想は理由付きでなければならない。いくら感想を持っても「楽しかった」「くだらない」「よい」「悪い」「好き」「嫌い」だけでは、それだけで終わってしまうし、その場にいるみんなが同じことを言ってしまう場合もある。くだらなかったならそれで構わないから、なぜくだらなかったか、どこがくだらなかったかを指摘することがポイントである。今まで、ただ「楽しかった」で終わらせていたことに少し理由や根拠を付け加えるだけでも、日常生活の中での議論の機会はずっと増えるだろうと思う。

会話の相手のバリエーションを増やすこと
 プリントの中では「異質な他者たち」が集う機会が少ないことが指摘されていた。まったく同感である。私たちの普段の生活は、人付き合いの範囲が狭すぎると思う。例えば、大学生ならば普段の話し相手は大学生だけ、という感じである。確かに相手との共通点が多ければ多いほど話は合う。しかし、いつも自分の周りの人だけと自分の周りの話題をしているだけでは会話もマンネリ気味で進歩がない。実を言えば、私自身も最近会話に退屈気味である。相手と自分にひとつ違うところ(例えば同じ大学生でも別の大学に通っていたり、学年、年齢が違って居たり)があるだけで、新鮮で刺激的な会話ができるだろう。ところが、普通に生活しているだけでは行動範囲が決まっていてなかなか人と知り合う機会がない。プリントにもあったが、日本にもパーティーの習慣があったなら、日本人の対人意識もさぞかし違っていただろう。日本でパーティーに似たものを強いてあげれば、飲み会や合コンということになるだろうか。しかし、飲み会もほとんどの場合は、気の合う数人と語り合って終わってしまう。合コンは、どことなく卑猥なイメージがあるし、これも小人数の場合が多い。これからの方法としてはネットでのチャットであろうか。ネットでのやり取りは、文字上だけのやり取りになってしまうところが難点だ。この他いろいろな方法を考えてみたが、ぱっとする方法を思いつくことができなかった。特定の人と深く語り合うことも有意義だが、新しい人と新しい会話をすることにもそれとは違った醍醐味がある。会話の相手のバリエーションを増やす方法を次回の討論で話し合ってみたい。

 

 

学問の技法に対する批判と追加 15040109  鈴木 見世

 このレポートでは「学問の技法」を読んでみての批判と、追加が必要だと思ったところを指摘するとともに、自分が大学生になって感じたことをも書いてみたい。

 

<学問の技法への批判と追加>

P.3 【学問の「技法」にこだわる理由】について

 なぜ学問に「技法」が必要なのかということの一つ目の理由として、学問というのはその何だかよくわからない魅力と、その技法の面白さから入門すべきだ、ということがあげられている。この部分には矛盾が含まれているのではないだろうか。「よくわからない魅力」と「技法」を並べて書くことは矛盾している。「よくわからない魅力」を持つ学問に「技法」があるとしたならば、その時点でその魅力は「わかるもの」になってしまう。技法というのは、対象がある程度はっきりしていなければ存在できないはずである。加えて、そもそも「技法の面白さから入門するべきだ」ということ自体に賛成できない。学問にも技法が必要なことは確かであるが、私としては学問は芸術に近い営みではないかと思う。芸術の反対に当たるものは科学であろう。仮にそう仮定する。科学はたいていの場合答えはひとつである。その答えにたどり着くために「公式」や「解法」などさまざまな技法が存在する。最初から答えはひとつであるということがわかっているので、「公式」や「解法」から入ってもさして問題ないだろう。いや、むしろその方が効率よくはかどるかもしれない。しかし芸術は答えはひとつではない。いや、答えなどないのかもしれない。答えがないために果てしない営みであろう。相当の根気も要るだろう。そうなると、はじめる動機として技法の面白さは不十分である。強い衝動のようなものからはじめるべきではないだろうか。絵を描くのにもピアノを弾くのにも技法は必要である。しかし、技法の面白さは、ある程度身についてから楽しめるものだろう。最初に強い衝動をもって始めるからこそ果てしない営みを続けられるのだ。学問も芸術のように果てしない営みであろう。技法より、強い衝動が学問への扉を開くのではないだろうか。

 

もう一箇所。「大学生にとって必要な技法は、大学受験生にとっても必要であり、また大学を卒業してからも必要である。」とある。大学生に必要な技法がこれから大学生になる大学受験生にも必要なのは納得できる。大学生に必要な技能が卒業してからも必要だというのはなぜだろう。よく理解できなかった。その理由がわからなければここの表現は「学問の技法」をなるべくたくさんの人に買ってもらうための単なるセールストークのようにも聞こえかねない。

 

P. 【学問する生活を誘う不良哲学者】について

 まず「不良」という表現がしっくりこない気がした。「不良」という言葉で言わんとするところのものは理解できるのだが、何かほかの言葉はないものだろうか。突飛な表現をつかうことは時には有効であるが、ここの表現の場合は不適切であろう。これより後の部分でも何度か「不良」という表現が用いられているが、その部分も何か別の言葉に変えたほうが得策であろう。また、4ページの下から7行目の「『学校の勉強なんてしないほうがいいよ』と言ってくれるような、痛快な魅力をもっている。」という部分にも問題があるのではないだろうか。「はじめに」の部分で「学問の技法」の読者として「これから大学生活を迎える人」も含まれている。これから大学生活を迎える人というのは、具体的には高校生や中学生であろう。同じ部分に「学問というものが『勉強の否定の上に成り立つ』」という表現があり、著者が学問をそのように捉えていることはわかる。しかし、まさに今学校に通い学校の勉強をしなければならない中学生や高校生をも読者として据えているならば、表現にもう少し気を使うべきではないだろうか。

 

P.5【学問するための低俗な動機】について

 6ページの真ん中のあたりに「例えば受験勉強のことを勉強してきたのではないだろうか。」という部分がある。この部分に限らず、「学問の技法」の中では「勉強」に対して必要以上に辛辣というかいやみというかそのような記述が見られるように思われる。前項でも書いたが、「学問が勉強の否定の上に成り立つ」という筆者の持論はそれそれでよいと思う。しかしだからといって「学問の技法」が学問を否定する必要はないのではないか。「学問の技法」が出版された場合、読者は勉強の時代を終えた人、またはそのさなかの人であろう。勉強の時代を終えた人といっても、学問の世界にのめり込みもはや勉強の時代のことなど忘れてしまった人ではないだろう。なぜなら、そのような人は「学問の技法を」読む必要もないのだから。となると、読者のほとんどが勉強の時代の記憶を持っているということになる。私自身もその中の一人なので実感したのだが、このような人にとって今の「学問の技法」において勉強について言及している部分の表現は不快感を覚えるものである。勉強を見下しているように感じられる。学問も多少なりとも勉強の恩恵を受けている部分があるのだから、読んでいる人に不快感を与えかねない表現で言及する必要はない。

 

P.6【学問に王道はない?】について

 加筆の要望。最後から数行目に「多くの人はあきらめてしまう。」とある。このような状態に陥ってしまったときの具体的な解決法を参考までにいくつか示してもらいたい。多くの大学生と接している著者ならば、効果的な方法もいくつか知っているのではないだろうか。もちろん解決法は人それぞれ違うが、著者なら参考になる方法を提示することができるのではないだろうか。

 

P.8【独学の仕方を学ぼう】について

 加筆の要望8ページの最後に「しかし教師に出すほかない。」という部分がある。こういう場合に自分でやる気を出すための具体的な方法をいくつか例示したらどうだろうか。最近では小さい頃から塾に通ったりして、人に教えてもらうことしか知らない人が多いように思われる。それゆえ、教えてくれる人がいなくなったときにどうすればよいかわからなくなり立ち往生したり、挫折したりする人も多いはずである。具体的な方法を示すことでこのような人たちの救いとなるかもしれない。

 

 P.34【本に対する鑑識眼をもとう】について

 1行目に「学者というのは」という表現がある。そしてその後に学者の読み方が紹介されているのであるが、本当に学者がこのような読み方をしているのか信用できる根拠がない。たとえば「○○によれば」や「私の回りの学者を見てみると」などという表現を加えるだけでも信用度が増すのではないだろうか。今のままだと著者の偏見とも捉えられかねない。

 

 P.37【音楽をコアに据える】について

 この項は未完成というせいもあるだろうが、他の項に比べて内容が薄い。著者の体験談から始まっているせいで客観性を欠いている。前項まで本について述べられているのに突然音楽が出てくる理由もわからない。この項は削除したほうがよいように思われる。

 

 P. 38【知的に無邪気に本を読もう】について

 「学問の技法」を最初から読み進めている中で疑問に思ったことのひとつに「なぜ本を読むことを薦めるのだろう。」ということがあった。38ページまで読んでやっと書いてあった。が、その前までだいぶ長く読書や図書館についてあるので38ページで理由を見つけても、「なるほど」というより、拍子抜けしてしまう感じである。本の話題が最初に出てきたのは31ページの【本屋で情報を得る】。38ページの【知的に無邪気に本を読もう】をこの前に持ってきたほうが、全体としての筋が通ると思う。

 

★P.54 【「会話」を楽しもう】について

 最後のほうに「日本には異質な人材であるだろう。」とある。日本には「異質な他者たち」がふれあう機会がないことは事実であると思う。しかしだからといってふれあう機会作りとしてパーティーを挙げることには賛成できない。他の国ではパーティーが「異質な他者たち」のふれあいの場とし機能しているところもあるだろう。だからといって、日本でもパーティーを行ったらどうであろうか。おそらく合コンのようになって終わってしまうだろう。パーティーのほかに何かいい方法はないだろうか。

 

★P.56 【議論を盛り上げる神さまたち】について

 「自分の意見の背後にあえて『神(偉人)』の言葉を立ててみてはどうであろうか」とあるが、これはかなり至難の業だと思われる。まず、偉人を知らなければならない。そして偉人の言葉をも知らなければならない。ここまでは読書好きな人や暗記が得意な人の中には難なくできるひともいるかもしれない。難しいのは次である。知った偉人の言葉を場に即して使わなければならない。ここまで完璧にできる人はなかなかいないような気がする。偉人の言葉を引いても話題とそぐわなかったりすると、ただの知ったかぶりに終わってしまう。知ったかぶりをして恥をかきたくはないということはみんなが思うところであろうが、恥をかきながら適切な用法を身につけていくしかないのかもしれない。いずれにしろ、偉人の言葉を用いて説得力のある弁論をするのには、ある程度の決心(?)のようなものとそれなりの背景知識が必要である。やはり至難の業である。

 

 

 

 

学問の技法ファイナル・レポート

22040127 理学部物理系 志村 恭通

 

 ついにファイナルレポートです。ここまで来るのに非常に長かった気がします。特別書き直すこともないので誤字脱字を直し、そのまま今までやったレポートを載せたいと思います。考え方がだんだん変わってくる様子が面白いかもしれません。しかしただ今までのことを載せるだけというのも気が引けるので最後に小レポートとして思いつくままに書いておこうと思います。ちなみに丁寧語を使ったり使わなかったりいきなり口語体になったりするのはクセなのでそこはお許しください。なお7回目以降は僕はレポートの順序を多少ずらして提出したのですがこのレポートは先生が提示した順に並べておきます。

 1回目

 今回の議題は大学教育のありかたと改革についてのことでしたが、先生のアイデアの中で1番良いと思ったのは学部決定の年齢を2年ほど遅らすということです。正直僕のまわりにも場所、学部や大学のレベルだけで進路を決めている人が数多くいました。また、ただ年齢を重ねたから良いのではなく大学で一般教養を身につけたのちに進路を決めることができるという考えに共感しました。ただ1次試験の段階で理系か文系かくらい決めさせても良いような気もします。

 先生の考えの納得できないところを挙げるとするなら、まずあまりにも多くの人間を東大やら北大やらに入れるのもどうかと思います。キャンパスがごちゃごちゃになったら他の大学(室工、樽商等)を吸収して北大をあちこちに作るというのは資本主義らしいといえばそれらしいが商売のように競争が目的ではない大学教育においてそれをのぞむべきではないと思う。大学個々の個性の中でさまざまな人間がうまれてそんな人間がおのおのの専門分野で活躍するのであって何でも北大にしてしまうべきではないと思う。東大に人が集まって大変なことになるのは目に見えている。やはり大学ごとに人数をしぼるべきで、それでこそ一生懸命受験勉強に取りくめるのだと思う。 先生は不良と付き合うことも大事だとおっしゃったが、それはそれで何か社会見学などといった一般教養科目の一部として作ればいいはなしであると思う。

 ところで先生は予備校の教師を外注として頼んで授業をさせるとおっしゃったが僕はあえて大学の2年間を一般教養だけにして2次試験に受かりたい人だけが予備校とかに通えばいいと思う、もちろん2次の受験資格は一般教養の単位をとらねばならない。大学と予備校が協力しあって成績の良い生徒は安価で予備校に入れる制度を組み立てていけばいいだろう。

 話はそれるが僕はブランド好きだ。北大ブランドも大好きだ。僕は資格を取ったり、何か名誉のある賞を取りたいなあと思うのもみんなそこから来るという非常に低俗な人間である。でもふとなんのために北大へ来たのだろうかとか何の為に生きているんだろうとか思うことがある。だからこそ大学でいろんな事に触れ、いろんな事を学んで豊かな人生を送りたいと思う。

2回目

 まずは学問とはなにかという問いですが、勉強とちがうのは明らかであると思う。勉強とはいわば勤労であり、辛いことでありある程度苦労することである。(それに喜びを感じる場合は除いて。)つらいことをわざわざするのはなんらかしらの目的があってのことだと思う。例えば勤労なら給与をうけとるためであり勉強なら受験に合格するためである。だから目的を達成する為にはがんばらなくてはいけない。

しかし学問にはそれがない。だからこそ知的な遊びと称されるのであり、いつでもやめることができ、いつでも始められる。それだけゆとりを持ったものだと思う。そのゆとりこそが新しくて独創的なアイデアを生む。毎日根詰めて働く人にはそういったものを生み出すことは難しいだろう。だからこそ先生の言うように大学教授は週に何回か働くだけでよいのだろう。恥ずかしい話そんな生活をしているのだったら僕も大学教授になって週に何回か教えて、好きなときに好きな研究をして気ままに生きてみたいものだ。僕は教職をとるつもりだし塾の講師もはじめたので(でも高校教員になるつもりはない。)それもいいかなと思う。大学教授という偉そうな響きも気に入った。もしよければ誰か大学教授のなりかたを教えて欲しいと思う。でもテレビに出る仕事もしてみたいのでいろいろと迷うところだ。

 まぁそれは置いておいて学問はだれでも出来るというが、とかく科学なんかの世界において知識は必要だ。知識のある人間はある程度、ない人間よりもその専門の知識があるぶん学問の種類の幅が広がるといったところか。また勉強をしてきた人間はそれだけ思考力が身についているぶん有利というくらいだろう。しかし人間の独創性に関してはそう行ったものに左右されることもなくむしろ学識の無い人間のほうがそういったものに関していえば有利な場合さえあると思う。哲学などに関してはそういった人のほうが成功するのかもしれない。とかく勉強といったものは人間の左脳を用いる物であってそれとは別に奇抜なアイデアや個性的な考えは右脳が生むものだ。

 しかし学問を楽しみたいという気持ちがあってもそうなかなか楽しめないのが現実だ。つまらないと感じるのが普通である。だがそれは学問を続けた後に来る喜びがわからないからである。最近短眠術に関する本を読んだのだがそこには短眠の喜び、快感を知らないからできない、面白くないと書いてあった。最初はつまらないと思うものが後に楽しいと思うことはよくあることで学問が楽しいのは多くの人が

実感していることなのだからやる価値はあると思う。他の単なる娯楽とちがって深みがあると思う。深い深いヨロコビがそこにあるのは事実だ。これこそ僕流の学問のすすめである。

3回目

今回はテーマが多いのでその中から絞って考えてみたい。できれば17〜18を読んでほしい。

 ではまずは「ばか知性」にふれるというテーマから考えていきたい。そういったものがあるのは事実であることはわかる。まず学校の試験についてだけを考えてみるとテスト前のつめこみといったものはその場限りのことであまり役には立たない。中間試験はとれても実力試験になるといい成果が出せない人がいい例だ。「継続は力なり」という言葉があるが人間というものは実際毎日こつこつやったほうが脳への蓄積率は高いのだ。例えば英単語を覚える際には一日一時間やるより3日で20分ずつやったほうがよいようだ。しかしこれはあくまで記憶力についての話で大学で学ぶ我々にとって必ずしも良いとは限らない。長時間集中して脳を活性化させ独創的な考えを生むことも大切だ。重要なのはたまにそれをやるのではなく頻繁に行えるかということだ。すると絶えず自分をあせりという緊張状態(常にテスト前のような状態)に置くか、本当に心から熱中できる知的活動を見つけて実行するかのいずれかだと思う。前者には強靭な精神力が必要であるのでそう実行できる人はいない、すると後者のほうをなんとかするしかない(むしろ後者のほうが楽しい)。偉大な発明家エジソンは一日1,2時間しか寝ずに1300もの特許をとったらしいが、寝る時間を惜しむほど熱中できるものを見つけたエジソンをうらやましく思う。

 次に若き日にバラをつかめとあるがこれはそのとおりだと思う。年を取るとまず仕事が忙しいし、身体がやりたいことに関してついてこないといわれる。大学という守られた空間のなかで社会に出る前にぜひぜひやるべきである。失敗しても十分に立ち直れるくらいの年齢でありまたそれゆえ責任を負う必要もあまり無いのだ。しかし今我々はそこまでの難題を持っているだろうか。僕の一番の苦悩はそこにある。このまま何も見つからないまま過ごしてしまわないかとつい考えてしまう。司法試験を目指す人をうらやましく感じる時もある。大学受験クラスの困難さと達成した時の充実感を持つなにかを早く見つけておきたい。人間苦労すればするほど大きくなれると思う、つまり中身のかっこいい人になれるということか。そして苦難を乗り越えたという自信を持って人生をどうどうと生きてみたい。自己否定度がみんな僕の予想以上に高かったということは少なかれ自分に自信を持てないで暮らしているのだろう.そこから脱却することできっと幸せな人生を送れるだろう。大切なのは上とかぶるが自信をもって熱中できるものを見つけることだと思う。

 4回目

今回の議題は大学生への読書のすすめと読書術に関するものだったが、僕自信読書は最近になってようやく始めたところである。読書と言っても自己啓発術についてのものがほとんどで量も決して多くはない。自己啓発とは「知らなかったことを気づかせて自己の考えや知識を豊かにすること」(国語辞典より)のことで具体的に僕が知っているのは記憶術や短眠術などで、つまり賢く要領よく生きる方法のようなものだと思う(詳しくはよくわからん)。ここでプリントにあった速読術といったものに着目してみたい。プリントで紹介されていた栗田氏の著書を僕は2冊持っているのだが、彼はものすごい人だ。彼は東大の理学部と医学部を出て1分間に1冊本を読めるという速読の権威だ。

 では速読とはいったいどのようなものなのか? 一般に言われている飛ばし読みやななめ読みといった技術的なものとは違い、イメージ脳(いわゆる右脳)といった部分に直接情報を流し込み、言語脳を使わずに内容をつかむものらしい。とにかく常人のうん10倍もの早さで1冊の本が理解できるものでありしかも、普通に読むより理解度も増すようだ(ようだ、らしい、が多いのは僕自信まだ体得していないからだ)。さらに専門書でも通用するというから驚きだ。信じられない話だがいろんな人の著書でもそのようなことが載っているし、多くの人が実践しているらしい。つまり訓練によっては誰にでもできるということだ。訓練の仕方はさまざまだが眼を速く動かしたり、焦点を合わしてないところを見たりするらしい。ともかく手に入れればすごい人生の武器になると思う。なぜなら記憶力も上がるらしいから資格を取るのにも役立つし、大量の情報を処理できれば仕事能率も上がるだろう。先生は本の虫になれとおっしゃっていたがその前に速読をマスターしてはどうだろうか?同じ量の本を10数分の1の時間で読めるなら利用しない手は無いだろう。 ただ速読もそうだが情報を処理できないほど、まさにシャワーのように流し込むのは賛成だ。脳といったものは情報が大量に流されると何とか処理しようとして活性化するらしい。速聴という自己啓発術があるのだが、これは英語などを通常の2倍や3倍の速度で耳に流し込むと普通の速度がゆっくり聞こえ理解も早まるというものだ。脳とは実によく出来ているものだと思う。

 テーマと違った話ばかりしているので最後に読書をする意味について考えてみたい。僕は自分自身の生涯の目標でもあるのだが、中身のかっこいい人間になりたいと思っている。定義としては多くの知識を身につけ、苦難を伴った人生経験をしていて、なんでもさらりとこなす人間といったところか、そのために教養を身につけいろんな人間の考え方にふれる必要があると思う。本はそんな内面を磨くのに最適である。本を読むだけでは目標すべてが達せられるわけではないが必ずためにはなるだろう。ぜひ知性というオーラをまとって人生を送ってみたい。

 5回目

今回もテーマが多く書きにくいものが多いのでいくつかに絞っていこうと思う。

まず多読についてだが、僕も本屋にはよく通う。1、2週間に1回くらいだろうか、北大北部店の書籍部には昼休みに暇があればよく行く。本屋で主にぱらぱらと多読している本の種類は今は資格の本、前のレポートで述べた自己啓発の本、マンガ、趣味の本、そして授業がわからないので(寝てて?)学術書などである。こういった本は図書館にはあまり無い本である。逆をいうと僕は図書館に無いような本が好きなのである。俗っぽい本が好きというわけではないが、とかくカントやニーチェ、太宰といった小難しい本や純文学、古典と言ったものは読まない。小説ですらめったに読まない。僕が読む本はだいたい2種類にわけられる、まずは本当の意味での娯楽の本、つまりマンガなどといった頭を使わずに読めるもの。もう一つはこれからの自分に直接的にためになる本、それこそ自己啓発の本やら学術書などである。この「直接的に」という言葉がなかなか厄介で、古典や文学にももちろんそういったためになる部分があるのはわかるが、僕にとってそれらから学んだものは霧をつかむがごとく自他ともにわかりにくい部分がある。それに比べて資格などといったものは誰から見てもよくわかるし、持っていることで自らの自信にもなるだろう.大学受験にもそういったところが僕にはある。難解な本にはせいぜい読んでいてかっこいいというくらいしか魅力は無い。そういった考えがすでに低俗であると言えるのかもしれない。話はそれたが多読の仕方は身につけるべきである。まえがきや著者の経歴を見るといったテクニックに加えて拾い読みや飛ばし読みの技術を身につけておくと時間の節約にもなるし、多くの本を読めるし、お金の無い学生にとっては余計な本を買わなくていいぶん便利だろう。それと内容の似た本のいずれかを選ぶ場合にはその中の1つのテーマに絞って読んで決めるのもいいだろう。

 学術書の読み方についても述べたいのだが、まず批判的に読むということには賛成できる。しかし「これおかしいんじゃないか?」と思って調べたり考えたりして理解することは大切だが、そこでわからないからといっていつまでも止まっていてはいけない。ときにはそこに線を引いたりして先に進む必要もある。先生もよくおっしゃっていたが型から入るというのも1つの手だ。公式を意味もわからず覚えるだけ覚えて後に問題演習を繰り返して理解できるということもよくある。また、わからない部分が他分野にかかっているときもあり、物理のわからない部分が数学をやっていると急にわかることもある。とかく自然科学は体系的なものであってある日すべてのつながりが理解できるものであると思う。もう一つ面白い読み方があって、わからない所を見つけるとそこで勉強を1次中断するという手段だ。僕は高校時代物理が死ぬほどわからなくて、そのわからない箇所を毎日毎日眺めては中断し、眺めては中断することを繰り返していた。するといつの間にかなんとなく理解できていたのだ。また僕は集中力が無いので数学の問題がわからないとよくごろごろ布団に横になったりしたものだ。その10分後あらためて取り組んでみるとなぜか解けたりすることがあった。医学的に言うとアルファー波がリラックス状態に発生するかららしいがよくわからない。とにかく試す価値はあると思う。最後に用語の意味を理解しながら読むことも大切かもしれない。パソコンの資格には技術的な部分を問うものの他に用語の意味など問うものもあるようだ。

 いずれにしても学生時代のうちに自分なりの本の読み方を見つけるべきだと思う。

6回目

今回の議題はなかなか耳の痛い部分が多くてけっこうヘコんでしまいましたが、とりあえず気になった2つ挙げてみたいと思います。まずは議論についてですが僕は昔は授業中によく手を挙げて発表したものですが、最近はなぜか意見どころか質問すらなかなかできなくなってしまいました。集団で議論する場合も何か言おうと思うのだが発言する内容が思いつかないのでつい発言する機会を逃してしまいます。積極的に議論して変なことを言う人を見ると、「うわぁ、やっちゃったよあの人。」とまで思ってしまいます。また本気で議論をすると相手との仲が気まずくなるのではないだろうかと考えてつい意見を差し控えたり、相手に言い負かされると逆に反発してしまう自分がいます。しかし議論によって得ることのできる会話力や論理力、表現力は大人になって必要になるに違いありません。

今世の中には議論のテーマとなるべき話題が学問的な内容以外にもあふれています。例えばイラクでの日本人の人質事件についてはどう思ったでしょうか。自己責任論に関してどう思ったでしょうか。僕の意見は人質が解放されてしばらくしてからわずかに問題になるならともかくまだ捕まっているのにあそこまで非難することはないでしょう。家族の気持ちをなぜ考えることができないのでしょう。無事に生還してイラクから帰ってきた彼らが頭を何回も下げている姿を見ると痛々しささえ感じます。話はそれてしまいましたが(いっつもそれてるなオイ)年金問題など議題となるテーマはあふれているので昼休みとか時間を見つけて議論するのもいいと思います。

もう一つ気になったのは発表に仕方についてです。僕は議論は苦手ですが、一人で一方的に話す発表は好きです。プリントの内容については塾講師の説明のときによく聞くこととほとんど変わらないことに驚きました。相手の目を見て話すことや疑問の形を用いたりすることはもちろん生徒のレベルを考慮することなども必要であるようです。なかでも多人数(ともかぎらないが)の前で話す際のタブー事項といったものがあるようです。まず「当然」や「普通は」といった表現は論理的でないだけではなく反発心を与えることがあるらしいです。また「わかるでしょ」とか「どこかでやったと思いますが」なども「いやわからんよ」と不満の声があがることもあるみたいです。よくよく考えると大学教授のなかにはこの表現はよくないなとかこうしたほうがいいなと思うことがあります。例えば大学が法人化されたことだし講義を受ける人数やその他の教授の評価方法を取り入れて教授の給与に多少の幅を与えることも必要だと思う。いずれにせよ聞く側の立場を考えた発表を心がけるべきだと思います。一生懸命下準備をして発表すると発表が下手でもけっこう相手はわかってくれるようです。

 

 9回目

 つい先日この講義の終わりに橋本先生に大学教授とはどのようになるのかと質問したところその次の週に親切にも僕のために99ページもの超ぶ厚いレジュメをダウンロードしてくださいました。タイトルは「学問の技法 大学院編」とあり大学院の生活から教授への道までかなりディプな話題が満載でした。そこでせっかくもらったので皆とはちょっと趣向を変えこのレジュメを中心にレポートを書いていきたいと思います。ちなみにそういうわけで初めのうちはあまり非難がありません。(申し訳ない

 まずことわっておくと大学院とは必ずしも行くべき所では無いようだ。僕は理系なので修士までは必ずいこうと思っているが大学院博士課程や大学教授にまでなると知的好奇心も失せ、相当の学問と教育に対する熱意と地道な論文を書く作業への根気が必要であるようだ。僕にそんなものがそれほどあるとは思えないが、あくせく働くよりは自由気ままな大学教授生活のほうが自分に合っているような気がする。少なくとも教えることだけは大好きだし自由な時間に好きな研究ができるというのも魅力的だと思う。それとノーベル賞を一番とれそうなのがやはり大学教授であるというのも教授になりたい理由の一つだ。ではまず大学院に入る(大学院でまともな生活を送る)ために学部生のうちに何をしたらよいかというとただ大学院試験を突破するだけなら京都大学(僕にとってはんぱじゃなく難しいが)の入試レベルの英語と専門・基礎科目をある程度修め自分のやりたい研究を口頭、論文で説明できるようにし、教授の業績や過去問を見ておく必要があるらしい(とかく情報が大事らしい)

 だが大学院で充実した生活を送るためにはこれだけじゃだめだろう。試験勉強とは別物の自主的で主体的な勉強と論文を書くための力をレポートで身につけることと自分のやりたいテーマ(研究課題)を見つけること(そのためにも専門科目をたくさんとったり多くの本を読むべきであると思う。)が大切だと思う。ただ受かるだけといった受験のような勉強はやめるべきだ。きっと入った後に痛い目を見るのは間違い無いだろう。なにしろ大学教授を将来の職として考えるなら一生学問に付き合うのだから広い視野を持って学部のうちから学ぶべきだ。

 では学者になるために必要な能力とはなんだろうか。驚くことには学者になるためには普通の知性さえあればいいらしい。(まぁ僕自身天才の出現を期待してはいるが)いかに課題を見つけるか、そしてそれにどれほど情熱を注げるかが大事のようだ。僕の解釈では運良く自分に合った課題を見つけ、学問の大好きな変人?がなるべき職業というところだろうか。サラリーマンのようにノルマがあるわけではなく自由な環境の中でいかに目標を見つけガンバることができるかといったところか。また文章を書く力がないといくらいい研究をしても評価されにくいらしい。英語が必要なのはいうまでもない。 

 ここで大学教授の世界をのぞいてみると(レジュメには大学院の生活がさまざまに載っていたが理系の学生に必ずしも役立つ内容があるわけではないのでここでは割愛する。)そこには気になる一節があった。「学者と言うのは豊穣な世界をめざすロマン主義者ではない。」と       ……ショック!!!!!!!!!  つまり先生が言いたいことは学者は生き生きとした人生を自ら放棄しているということだろう。社会に出ないぶん、人より研究室に閉じこもっている分そう思われても仕方がないしそういう人間こそ学術的に素晴らしい研究をするのだろう。とりあえずここでいちおうロマンについての定義を考えてみると辞書には「夢やあこがれを感じること」と載っている。まさにそのとおりだと思う。あくせく働いて会社に貢献することに生きがいという名のロマンを求めるのもいいだろう。しかしこれは逆ではないか?僕はそんなものにロマンを感じたりはしない。悪く言えば社会に出てその他大多数の人間と同じく会社の歯車の一つになって慎重に子供の進学のことや家のローンを考えて、年収が1000万を超えればよそさまに「うらやましいわ。」と言われるような人生を送りたくはない(本当に自分の仕事の内容が好きな人やお金を貯めて何かをしでかしたいという人は別だ)。つまり極端な話社会に出る=現実的で夢のない生活を送るということだ。逆に大学教授にこそロマンがあふれていると思う。自分にとってのロマンがある研究を好きな時に好きな時間だけやり、のちに述べるが大学教授とは時間(ヒマ)が他の職と比べて多いので研究以外にも何らかの活動(芸術、恋愛など)にロマンを求めるのもいいだろう(むしろそっちに集中してもいい)。いずれにせよ大学教授は僕のような一生青春を求めるロマン主義者にはピッタリだと思う。 

 ここで大学教授という職の利点が載っていたので紹介しよう。まず学生と同様に長い夏、冬、春休みがある(普通の会社員にはほとんどない)。入試作成や教授会なども簡単にサボれるらしい。そのわりに給料は年収600万ほどだろうか一流企業ほどではないにしろ仕事量の割には多いといったところか(私立は自由時間が少ないぶんもう少しもらえるようだ)。誤解が無いように付け加えると大学教授のほとんどはそんな待遇の中でも忙しい毎日を送っているようだ。それだけ研究や教育が楽しいのだろう。またまことに俗っぽいことで申し訳ないが大学教授という権威ある響きもよい。またさらに自分なりに大学教授が魅力的だと思える理由を考えると、ロマンを追うという作業は少なからずリスクを背負うことにつながる。たとえば夢半ばにしてあきらめたお笑い芸人やミュージシャンは年老いてからの就職にさぞ苦労することだろう。しかし大学教授はロマン(研究やヒマな時間にやること)を求めているにもかかわらずそれがうまくいかなかったりしてもある程度の生活が保証されるということである。もっとも研究活動にどうしても興味が持てないという人は別だが。少なくとも一応北大教授なら国家公務員という扱いなのでリスクは少ないと思う。 言い忘れたが僕が研究=ロマンとするのは研究というものは未だかつて世界の誰一人としてやったことのないことだからだ。大学34年にもなれば先人の知恵をある程度身につけ学問の先端に立たされ何十年後の世の為人の為に研究という名のフロンティアを切り開いていくのだ。理系の場合特にそうである。これをロマンと言わずして何と言うか。

 大学教授に関してもう一つ魅力的と感じたのは最初に述べたとおり教育である。ここからはレジュメとは関係ないが大学の授業をどう思うだろうか?なにかぼそぼそと前で話して、汚くて小さく見えにくい文字を学生が書ききれないほどの早さで書き連ね特に魅力的な話をするわけでもなく帰っていく。すべての教授がそうではないにしろ、こんなことを続けていくわけにはいかないだろう。ここでオリジナル大学改革案『教育編』を展開したい。まずは大学が法人化されたこともあって私立っぽい?制度を導入すべきだと思う。具体的な案としては年何回かの大学一律の学生によるアンケートの形をとった教授の評価を実施してそれに応じた給与の多少の増減。教授、助教授とは別の教育方面の役職の設定(これによって研究、論文で成果をあげられなくても教育者として認められる。)。研修制度の充実。お互いの教育の仕方を学ぶ事を目的とした他大学との交流の機会を設ける。学習塾や教育大学からの指導制度を作る。大学教師という資格を作って高校や中学と同様に大学生が教職を学ぶ仕組みをたてる。教室に監視カメラをつける。教え方のレベルを数値化して学生に公表し選択科目を選ぶ際の指標にする。(アンケートの結果など)。臨時の偉い人の視察などなど……    ちょっと極端な例もあるがちょっと考えただけで簡単にどばっと出てくるものだ。もちろん大学といった学問の為に外界と隔離された空間においてこういった資本主義的、競争主義的なことをやるのはアカデミックの衰退につながる可能性があってどうかとは思うがやる気の面でももう少しましな授業を大学にを求めている学生も多いだろう(もちろんそうでない教授もたくさんいるが)

 ここからは先ほどの話とつなげて橋本先生が初回の授業で述べた大学改革論についての批判を考えたい。まずセンター500点は低過ぎだと思う。生徒の数が大幅に増えるのは目に見えているしそこでキャンパスを増やしても個々の教官の質を下げるだけだし大学だけが人生じゃないのだから教養を身につけるよりは専門学校等に通って自分のスキルを磨くべきだと思う。そもそも大学は学問をする為にあり、外界と隔離された机に長時間座ることができ、アカデミックを追求する志と知性を持った人間が行くべきところであるべきで、そうでない人は授業をつまらなく感じるだろうし教授もそういった人間のみを対象とした授業ができるのだろう。もし大学に行く力がなく進路が決まっていない人、もっと教育を受けたい人の為に教養学校(大学の教養より垢抜けている感じの)を作るのもいいだろう。大学における教養科目とは専門科目を習う前段階の位置を占めると思う。つまり教養と学部で専門的に習うこととは2つで1つなのだ。しかし大学に入ってもなかなかやりたい学問、研究を決めかねる人のために僕がすすめる考えは受験の際に東大で採用しているような文一、文二といったおおまかな分け方を利用すべきだ。ここで軽く説明しとくと、例えば理一には工学部、理学部、理二には薬学部、農学部といった生物関係といった学部に二年生で進学できるらしい。この分け方の利点は大学受験の際にただなんとなくこっちのほうに行きたい人はとりあえずそれがあるところに行き、二年生で本格的に行きたいところを選ぶことができるという所にある。さらにいえば一年生(つまり大学受験)で文系理系に分け、二年生で理一、理二と分け3年生で学部分属するのもいいだろう。でもそれだとかなり年をくってしまうので小学校を5年生までとすればちょうどいいだろう。いずれにせよ大学受験にはある程度の困難さが必要だろう。

 10回目 まとめの小レポート

 学問の技法を終えて感想といえばとにかく大変だったということだろうか、文字数にして15000字くらいだと思う。全学の中でこれほど多くのレポートを書かされた科目はない。文章を書くのも読むのも慣れていない理系人にとってはたいへん骨のいる作業だった。しかしその分得られたものも多く、今となっては800字程度のレポートは全く苦にならず文章構成力もアップしたように思える。また班員と議論を交わす(おしゃべり?)ことも楽しく、友達も増え毎週金曜の2限目が待ちどうしかった。なんにでもマニュアルがあるように学問の技法は大学生活を送るうえで必要なスキルだと思う。しかしそれは一本の王道があるのではなく個人個人が自分にあったものを見つける事が大事だろう。大学に入って受験勉強から開放され好きなように学問に取り組めるようになった今いかに深く、要領よく、楽しく学ぶかが大切になるだろう。この講義がそのためにきっとどこかで役に立つだろう。

追伸 この夏休み中に速読を覚えたいと思う。

 

 

 

 

学問の技法 批判集

15040149 小西秀昭

【大学受験システムについての批判と提案】

橋本氏の考案した大学教育システムは、きわめて簡単に要約するなら、能力のある学生にはどんどんチャンスを与えよう、というものである。

しかし、世の中優秀な学生ばかりではない。ここでは、そこそこ優秀だが奨学金やVIP待遇には手がでない、つまりごく普通の学生、に焦点をあてて、考察をすすめることにする。

橋本氏の大学改革案によると、12年次の授業は、高校教師や予備校教師・官庁の人間・英会話学校の教師などの多彩な人材を大学の外部から講師として招いて授業を行う。学生たちは様々な授業体験を通じて、自分が本当にやりたいことを発見し、3年次に最終的な学部の選択をすることになる(自己発見期間)。

しかし、現実に、12年次の期間を「自己発見」のために費やす余裕が多くの学生にあるかどうかは、疑わしい。なぜなら、3年次進級テストが、本質的に現行の大学入試の二次試験と変わりのないものだからである。橋本案によれば、三年次進級テストは各大学・各学部が個別に作成するものである。たとえ日本中の大学が東京大学に吸収合併されたとしても、「東大の分校」同士で競争と序列化が起きるのは必至であるので、上位(分)校に編入するためには相応の学力が必要になる。ならば、多機能教育空間で様々な体験をして、それから進路を確定しましょう、などとのんびりしたことは言ってられない。そんなことをしていては、受験戦争でおくれをとってしまう。結局、テストで点を取るのが得意な者が良い大学に行けるという構図は改革前後で変わらない。というよりむしろ、学力偏重志向は強くなっている。

しかも、一次試験の成績いかんで授業料のローン支払いのプランで差が生まれたり、取ることのできる授業に制限がはいったりする。それを考えると、楽ができると思われる一次試験までも実はぜんぜん楽じゃないということになる。自分の限界まで勉強して、できるかぎり高得点を取らねばならない。

さらに、一次試験は高校1年次から受験可能だし、その後もがんばって試験をパスできればいわゆる飛び級がいくらでもできる。だから、大学のブランドとともに、「いかに早く卒業できるか」が、今以上に学生の大きなステータスになるだろう。このような背景は、学力偏重志向に拍車をかけることになる。今、幼稚園やそれより小さい時から勉強をさせるようなことがニュース等で話題になるが、今後はそれほど珍しいことではなくなるかもしれない。

このような学力偏重志向が望ましいことか、また、どの程度までなら許容できるかは、人それぞれ違うだろう。ただ、自分の意見を述べるなら、今の受験も、橋本案での受験も、詰め込み式の勉強と学力偏重志向が存在しており、それは望ましくないことだと思う。10代までのいろいろな側面で大切な時期が、勉強だけに費やされてしまうおそれが大いにあるからである。

そのため、これはもはや批判というよりリクエストなのだが、橋本氏にはぜひ、大学教育や大学受験のシステムというハード面だけではなく、大学受験で学生が要求されるべき力は何なのか、今のままで良いのか(自分は良くないと思う)というソフト面についても知恵を出していただきたい。

 

【大学は学問をするには適さない】

学問と勉強の違い、という今回の授業のトピックは大変興味深いものであった。

しかしここで、私には疑問がある。それは、大学は学問するために機能しているのか、ということである。

まず、大学には二つの側面があることを述べておきたい。教育機関としての大学と、研究機関としての大学である。

教育機関としての大学は、より高度な内容を取り扱うというだけで、高校までの授業とは本質的に変わらないものだと思う。後で述べる、研究機関としての大学が成し得た学説を啓蒙するという役割はあるものの、やっている内容は「勉強」である。ゆえに大学の授業で成功するにはある程度の規律訓練が求められるのかもしれない。

一方、研究機関としての大学(ここには、研究室に入り研究や実験を行う上級の大学生も含む)は、研究者が様様な分野で最新の理論を構築するためのものである。これは、前者に比べて学問的要素が多く含まれていると思われるかもしれないが、学問を収入源としているという点から純粋に学問を楽しんでいるようには思えない。学生の卒論等も卒業という目的が存在するため、同様である。

私は詳しく知らないが、企業に依頼されてある分野の研究をはじめることもしばしばあると聞いたことがある。このようなことからも、研究機関としての大学から、学問の要素を汲み取ることはできない。

以上のことから、大学は実は学問をするために機能してはいない、という結論に至る。

そしてここからは、橋本氏に対する批判になるのだが、橋本氏の提案する大学入試システムにおいても、以上で述べてきた大学の性質(すなわち、教育機関としての大学と研究機関としての大学のこと)には、本質的に変わりがない。

では、どのような大学が学問をするに適しているのか。この問いに私は確実な答えを出せずにいる。なぜならば、それが道徳の問題だからである。

大学生という期間を、就職までのモラトリアム期間と捉える考え方が世間で一般的になれば、大学は学問の機関にはなりえない。そして今まさにそのような考えが世間において一般的であり、その是正を試みるのは困難である。

それゆえ、問題は個人個人の学問に対する姿勢の問題に還元できそうである。

自分で情報を集める力が必要である。

 大学受験のシステムを変えるだけでは、根本的な解決にならないことは前項で述べたが、大学を学問機関にするためにも、同様に受験システムの変更だけでは不充分であり、社会そして個人の大学や学問に対する認識を改めなければならないのだ。

【健康法反対】

資料の中には賛成できない「健康法」がいくつかあった。

 まず、我慢して椅子に座りつづける苦行(草案16頁)である。理由はとても簡単で、そんなことをしては、当然体のほうの健康によろしくないからである。いくら高度な思考能力を身につけても、体の自由が効かなくなってしまっては、知識人として社会に貢献できまい。

(人それぞれ学問との付き合い方は違うだろうが)私は身体的な犠牲やリスクを負ってまで知的な快感を得たいとは思わない。

 また、背筋力(草案16頁)ついて、一流大学の学生と二〜三流大学の学生の違いは腹筋力と背筋力であるとの予想をしているが、それは個々人の体力の問題であり、理論が飛躍していると思う。

 また、草案18ページの【寝る時間と起きる時間】は、学問とあまり関係がないように思われる。

 

【読書の落とし穴】

読書は確かに自分の知識を増やす、という意味で、たいへん重要なことである。しかしながら、私はここに落とし穴があることを指摘する。

それは、読書=学問という考えに陥りやすいということである。だが実際には読書をすることは学問をすることとはまったくちがうことなのである。

まず第一に、ただ読書をするだけでは、知識量は増えるかもしれないが、「自ら問いを発する」ことにはならない。

第二に、読書で得られる知識は、その本の筆者の考えであって、絶対的真理ではない。ましてや、自分の考えた答えでもない。しかし我々は、しばしば筆者の考えを真理と思い込み、さらに読んだだけで筆者の考えを自分の考えたことと錯覚しがちである。

以上のことから、読書は「学問」よりもむしろ「勉強」よりの活動であるといえる。もちろん、ゆえに読書はしないほうがよい、と言いたいわけではない。本を読むことは、学問をする上での基本となる知識を増やすことになる。

そうではなく、我々は読書をするだけでおわってはいけない、というのが私のいいたいところである。重要なのは、筆者の考えを鵜呑みにするのではなく、本当に正しいのか自分の頭で考えることである。もちろん、本を出版するくらいの人物への反論を考えるのは我々普通の大学生には大変難しいことである。しかし、自分で考えるという行為は、学問をする上での思考力や判断力を鍛えるのに大変有益だと思う。

私たちは学問をするつもりであっても、長年の癖であるのか、いつのまにか勉強よりの活動や思考をしがちである。だから、勉強から解放されたての今の時期は、学問をすること、すなわち、自ら考え問いを発すること、を意識的に実践するべきであろうと思う。それは、なかなか高い水準の規律訓練を要することかもしれない。しかし、学問や読書に限らず、どんなに楽しい行為でも、少なからず規律訓練を必要としよう。だから今はつらくても耐える時期であると考えている。

 

【橋本氏のバイト観についての批判】

読書をする上での注意点については、前項で述べたとおりである。また、前項の注意点は、実体験の重要性というトピックにもつながるものである。

本を読むだけで真理を知ったつもりであることは思い上がりであるし、そこで得た知識と自らの実体験は性質のまったく異なるものである、ということに注意しなければならない。と、このような話は、情報化社会と謳われるようになってから、よく聞く話である。

講義中にこのような前提の元で、橋元氏と次のような議論をしたことがある。

ここに、二人の大学生がいる。一人は読書をたくさんする人(Aとする)であり、もう一人はバイトに明け暮れ読書が皆無である人(Bとする)。橋元氏いわく、この2人では、卒業後就職し会社で成功するのはAの方であるという。

本当にそうであろうか。さっきの実体験の重要性を考えてみると、Bの方が成功してもおかしくないはずである。そこで、恐れ多くも橋元氏に反論を企てようと思う。

反論点1として、このような結論には統計的なデータがない。つまり、橋元氏の発言も推測の域であり、反論は十分に可能である。

反論点2。橋元氏が言うには、Aの方が普通の人はやらないような経験をたくさん持っており、それが成功につながるのだという。しかし、ここで橋元氏のいう成功とは、どのようなものであろうか。経験の特異性という要因から察するに、ほかの人が考えつかない商品を思いついたりする類の成功なのではなかろうか。このような成功のパターンは当たれば大きいがそう多くの人が経験できるものでは無いはずである。というか、そんな人はもともと少ないから成功とよばれるのである。

反論点3。Bはバイトという実社会に極めて近い環境に精通しているが、Aは読書という学問に近い経験しかしていない。(学問とは現実社会から乖離した活動である。)また、橋本氏はAはBのように誰でもやるようなバイトではなく普通の人がやらないようなバイトの経験を持っていると反論されたが、コンビニでのバイトなどの一般的なものから得られる経験も普通じゃないようなバイトで得られた経験も、その仕事内容の難易度に差がなければ、経験の価値はそれほど変わらないように思える。

以上のような点から、私は橋本氏の考えを否定する。

 

【はたして引用に有益性はあるのか】

神や偉人の言葉の引用(草案56ページ)に対する批判。

 私は正直言って草案の56ページから始まる【議論をもりあげる神さまたち】の部分がいまいちよくわからなかった。神や偉人を引用する事にあまり意義を見出せないのだ。確かに、尊敬できる学者や作家を見つけるのは大事なことである。その人の思想や生き方を学ぶことは、後の人生の良いサンプルデータになるであろうからである。しかし、それは結局自分の生き方や考え方の指標に過ぎず、議論の場でそれをそのまま引用するのはふさわしくないと思うのだ。神や偉人の名言と呼ばれる言葉はあくまでも彼らの言葉であって、自分の言葉ではない。また、草案の56ページに古代ギリシア人が神や偉人の視点から語るという事実が載っているが、それはあくまでも「会話」において、であることに注目しなければならない。

 

【先入観は大切なきっかけである】

次に、草案内での順序は前後してしまうのだが、読書の部分(草案52ページ)についての話をしようと思う。橋本氏曰く、人はよく読んでもいない本に対して批判をしたりするが、そのような先入観(=レッテル)をもつのはよくない、という。なるほど確かに、第三者に本の内容などを伝えるときにレッテルを貼ってしまっては、客観性に欠く説明になってしまうだろう。しかしそれでも、私は時には先入観が必要なときもあると考える。先入観が必要なその主な場面は、本などとの出会いの場面である。

まず、先入観すなわちレッテルには2つのタイプがある。ひとつは、良い印象を与えるレッテル、もうひとつは、悪い印象を与えるレッテルである。

もし、悪いレッテルを貼られた著者の本であるならば、知的好奇心は幾分か剃り落とされるであろうが、逆に良いレッテルを貼られた著者の本なら知的好奇心を掻きたてられるはずである。

それは悪いことではないはずである。レッテルは物事の動機としてうまく機能するときもあるのである。もちろん度が過ぎたレッテル貼りは問題だが。

 

 

 

 

学問の技法最終レポート

15040018   酒井 壱幸

 

国立大学改革案に対する意見

この改革案にはいくつか問題点があると思われる。

まず、この改革案は国立大学が民営化されることを前提としている。民営化=ビジネスである。経営者は利益を上げることを当然考えなければならない。民営化により国からの補助金はかなり減る。また、奨学金制度などのオプションを増やすことにより、大学はかなりの資金が必要となる。そこで大学側は資金を集めるために学費を上げることが予想される。学生は長期間学習(改革案では約4年延長と仮定)+学費増により金銭的な負担は現制度より数倍増える。卒業後、多くの人は20代半ばから後半にかけて就職するだろう。ここで女性に焦点を当ててみたいと思う。私が考えるこのシステムの最大の問題は、結婚者数の減少、それに伴う少子化の促進である。学生は卒業後、今まで借りてきたローンを返さなくてはならない。しかし、先にも述べたようにこの負担はかなり大きなものである。これは男女ともに変わらない。長い時間と労力をかけて返済しなくてはならない。もしここで仕事をやめてしまえば多額のローンが残り、今までの大学での努力は無駄となり、さらに将来的には数千万と予想される収入も失ってしまう。改善されつつあるとはいえ、女性の社会進出、とくに妊娠、出産、育児後の仕事復帰の環境は決していいとはいえない。確かに女性にとって結婚とは人生最大の幸福といわれているが、果たしてこのような状況で簡単に結婚をしようと考えるだろうか。少なくとも家庭に入り主婦業に専念しようと考える人はまずいないであろう。女性の婚期はさらに遅れ、よって生まれてくる子供の数は激減=数十年後の大学入学者数も減る。大学は更なる学費の増加を余儀なくされ、大学入学者数はさらに減少…という悪循環が繰り返され大学の経営は破綻、延いては日本社会の破綻にもつながる可能性があると思われる。

2番目の問題として、この1次選抜試験方式では合格ラインが低すぎることである。高校生のうちに学力を固めることは重要である。現在、日本の高校生の学力レベルは先進国の中でも高いとは言えず、勉強に対する関心も低い。また文部科学省のゆとり教育の方針によりこれからますます学力は低下していくものと思われる。しかしこの改革案では逆に考えると高校時代をいいかげんにすごしても大丈夫であるかのような解釈ができる。むしろ都合よくそう考える人のほうが多いのではないだろうか。私は高校で培った学力を基にして大学でさらに発展したことが勉強できると考える。よって、この改革案は不適当であると考える。

そして3番目の問題として、教養科目による選抜試験では判定の基準が不明瞭なことである。教養科目は多種多様である。それでは統一科目を出題することは難しく、また統一させては生徒の興味を削ぐことになり、学生の学問の自由を侵害してしまう。大学で様々な経験をするためにも、この改革案は不適当であると考える。

以上の点から、この改革案には反対である。

 

                    15040018   酒井 壱幸

 

学問の技法レポート2

 

 いままで自分がやってきたことは「勉強」であったように思う。小学生のとき…先生に怒られるのが恐くて毎日漢字100字を書く。中学生のとき…塾へ通って勉強。高校生のとき…受験勉強。そこに自分の興味、関心はあまり関係ない。ただ、周りの環境に迫られ、ひたすら知識を覚えることがもとめられていた。

 自分はまだ「学問」がどういうものであるかということをあまり把握してはいない。もし先生が述べられたように、「勉強」とは「ある問いに対して答えを出すこと」であり「学問」とは「答えの確定していない新たな問いをだすこと」であるのならば、いま自分が大学で学んでいることが本当に「学問」であるのかと疑問を感じることがある。それは、語学の時間だ。自分はいま3つの語学を勉強している。そのなかでも具体的には必修科目の英語のときに強く思う。英語の時間にやることは、教科書を読んで予習し訳を考え、それを授業のとき生徒が1文ずつ発表することである。友達にきいたところ、多くのクラスでも同じような状況らしい。やっていることは中学、高校時代とまったく変わらない。文の難度も受験時とそれほど変わらない。これは「学問」というより「勉強」であるような気がする。中学、高校である程度英語の知識を身に付けたのだから、それと同じことを大学でするのはつまらない。それならばもうすこし実践的な内容(例えば、英会話の授業を増やすとか、学部に関係する英語の文献を読む機会をつくるなど)にしたほうがよいと思う。

そうすることによってもっと英語を有効に使えるようにもなると思う。「学問」が「答えの確定していない新たな問いをだすこと」であるのならばもっと学生が自主性を持ち、様々な興味、関心をもつことができるようにするための環境をつくるべきである。そのために、いまはやりの「ゆとり教育」の考えをやめるべきだと考える。高校までは多くの知識を身に付け、豊富な知識を基にして、大学でより発展的に「学問」ができると考える。

また、「学問」をするために中身のないプライドを捨てる必要は本当にあるのだろうか。自分は逆にプライドは持っているべきだと思う。プライドの持ち方によっては、おおいに自分を高めることにつながることもあるのではないか。自分もいままで頑張って勉強をし、この大学に入ったことに関して多少のプライドは持っている。ほかにも同じように考えている人はいるだろう。しかしそのプライドを守るために、勉強しているところを見せないようにして、他人から頭がいいとおもわれていたいという考えは理解できない。自分がそのプライドを守ろうとするなら、おそらくまわりに負けたくないという思い、または他人よりいい結果を残そうと思ってよりいっそう頑張ろうと思うはずである。よってプライドは持つべきである。

        

15040018         酒井 壱幸

 

 

学問の技法レポート3

 

 今回は「知性と感性の二分法を考える」というテーマに興味をもった。これについて考えてみたいと思う。

 自分はこのレポートの中に出てくる素朴な大学1年生のうちの一人だ。大学入試に芸術科目を課す必要はまったくないと考える。そもそも自分は今の学校での芸術科目の指導方法に疑問を感じる。特に自分が中学生の頃の「美術」だ。手法についてアドバイスを受ける程度ならまだ許せる。しかし、なぜ自分が創造したものを他人(教師)に判断され、挙句の果てに修正される。これが一番理解できない。これではもう自分の作品ではなくなっているのではないだろうか。何か自分の感性が否定されたような気がした。成績に関しても不満がある。数学や英語のようにはっきりと結果が出るものには誰も不満は言わない。しかし、美術はどうだ。ただ教師の目から見た評価だけで成績が出てしまう。美術などというものは個人によって、感じとるものが様々だ。特にいい例がピカソだ。これは本当に昔から納得がいかない。世の中では彼の絵を数千万円から数億円で買う人がいる。しかし自分には彼の絵のよさがまったくわからない。中学の美術部の作品のほうがよっぽどマシだと思う。そういうわけで、ほんとに美術が嫌いになった(もともとあまり好きではなかったが…)。そのようなあいまいで理解しづらい他人の判断に納得できるのだろうか。しかもそれを大学受験でおこなうとは…。(余分なことだが、先生はその内容は音楽史などのようなものでもよいとおっしゃっていたが、それでは知性を試していることになるのではないのか?しかも音楽に関する人名や文化程度の内容なら世界史のセンター試験のレベルにも少し出てくる内容でもあるし。)とにかく、以上のことからも大学入試に芸術科目を課す必要はないと思われる。

 では、芸術はどのようにあるべきなのだろうか。自分はスポーツと同じようなものと考える。ただ趣味程度に音楽を聴いたり、絵を描いたりするもよし。生涯真剣に取り組むもよし。やはりそれは個人に任せるべきことであって、誰かに干渉されるべきことではないと思う。自分が気に入ったものを選べばいい。やめたければ勝手にやめればいい。個人個人が自分なりの面白さを発見し、自分なりに追求していくことでその人にとっての芸術というものが形作られていき、自分独特の感性が養われるのだと思う。

日本人は知性ばかり養って文化的に世界と比べると低いといわれるが、それもまた日本の文化的な特徴の一つとして言えるのではないか。これほどまじめに働く人種もなかなかいない。それは自信を持っていいことだと思う。そして、自分もこれからそのようになっていくのだろう…

 

                     15040018    酒井 壱幸

 

 

学問の技法レポート4

 

 今回のテーマは「読書」。その中でもとりわけ、本を「何のために読むか」ということについて考えてみようと思う。またいつものごとくこのテーマについて批判的な文を書くことになりそうな気がするが…。

正直、自分はまったく本を読まない。有名な教授の書いた本だろうが、有名な作家が書いた小説だろうが、巷でよく売れている新書だろうが、コンビニに並ぶ雑誌だろうが、周りの友達が読んでいる漫画だろうが…。人より本を読んでいないという自信だけはある。しかし実のところ、本を読む人間、さらには本を楽しめる人間になりたいと少し思っている。どのように読書をすればいいのかわからないのだ。だからこのテーマはこれから自分が読書とむきあっていくうえで今、最も知りたいことでもある。

 まず、何故今まで自分は本を読んでこなかったのか振り返ってみたい。

一つ目、読むのがめんどうくさい。本を読むには時間がかかる。しかも年を重ねるごとに、読むべき本は複雑になってきた。話の内容は難しいし、字は小さくなるし…なかなか読む気にならない。読んでみるまで自分にとって面白い内容なのかどうかわからないものに時間をかけて、やっぱり面白くなかったということにはなりたくないと考えてしまう。

二つ目、なかなか本を読む集中力が続かない。去年、マイケル・ムーア著「アホでまぬけなアメリカ白人」という本を買った。ブッシュ政権を批判した内容であり、当時イラク戦争で世界が揺れていた時期だったので少し興味があった。読んでみたところ想像どおりおもしろい内容で、最初の数日はどんどん読み進めていった…のだが。しばらくするとなかなかページをめくる回数が減り、本を手に取る回数が減り…結局300ページくらいのうちの4分の1も読まずに実家の物置に眠ってしまった。

三つ目、これは本当に悩みの種なのだが、本あるいは何かの文章を読むときに問題意識を持ち続けることができないのだ。本を読んでいてもなんとなく読み流していて結局何が書いてあるのかがわからずまた初めから読むことの繰り返し。これだけは本当に何とかしたい。

本題に戻る。いったい本は何のために読むのか。これは前回のレポートに書いた感性のことと似ていると思う。つまり各人が自分の興味関心、教養の幅を広げるために自分の好きなように読むものだと思う。だから、本を読むことに具体的な目的はなくてもいいと思うし、本を読むことで何かを得なければならないということもないと思う。(資料や意見を求めるために本を読むことは別だが…)

そこで、納得できないのが小学校の夏休みの定番の読書感想文だ。感想を書くために本を読むということに意味はあるのか?普通逆であろう。これでは好きな人も特にいないのに、恋人を欲しがっている人と同じだ。

自分もいつか、自分のために素直に本が読めるようになりたい。

                      

15040018   酒井 壱幸  

 

 

学問の技法レポート5

 

 今回は「感想と批評を書くことを前提に読書をする」というテーマについてレポートを書いてみたいと思う。前回授業に参加できなかったので先生の意見を詳しく聞くこともできず、あまり資料を読むことができなかったので個人的見解を述べるだけになってしまうがご了承いただきたい。

 まず、はじめに意見を述べると、自分はこのことに関しては反対である。これは小学生時代の夏休みを振り返ってみたときに必ずでてくる、いわゆる「読書感想文」と同じようなものであると考える。これには前から少々疑問であった。どうして感想を書くために本を読まなければいけないのか。ただ本を読むだけではだめなのだろうか。そんなこと夏休みが終わってからやればいいことなのに…。感想とは何かをした後に始めて出てくるものである。ときには短い感想もあれば、またあるときには言い尽くすことのできないくらいの感想が生まれることもある。なかには、まったく何の感想も出てこないほどつまらないことに出くわすこともある。それらはすべて、何をするかによって変わってくるものであり、読書においては、どの本を読んだかによって変わってくるものである。これは前のレポートに書いたことと重なってしまうが、恋愛において特定の好きな人もいないのに恋人を求めるようなものである。本来重要なのは自分の気持ちであり、恋人が欲しいというのはその気持ちがあってこそのことである。読書においても重要なことは自分が何を感じるかであり、それを文として書くことは二の次である。つまり、「感想と批評を書くことを前提に読書をする」ということは本末転倒であり矛盾であると考える。

「書く」ということはある程度の文となることが必要である。先にも述べたとおり、感想とはその対象によって様々である。本を読んだとき、自分の中にはっきりとした感想やそれに対する意見がうまれればよいが必ずしもそういうときばかりではない。本を読んでみてつまらないと思うこともあれば、読んでみたもののその内容が理解できないこともある。本を読んでみても、感想を書くことができなければその本を読んだ意味がないということになってしまうのであろうか。たいした感想もないのに無理に感想を書こうとすることにはたして意味があるのだろうか。また、感想を書くことを前提に本を読むようでは、読書の本来の意義が生まれない可能性も出てくるかもしれない。自分は読書とは、その本を読んでみてその人なりの新たな知識、興味関心、意見感想などを得ることに価値があると考える。またそうなるためには自然体になって本を読み素直に本の内容を受け入れることが必要になると考える。しかし感想を書くことを前提とし、それを書こうと思いすぎると余分なことにまで気をとられるようになり、逆に自分の素直な感想が書けなくなってしまうのではないか。

よって読書をするときにはわざわざ感想と批評を書くことを前提にする必要はないと思う。

          15040018 酒井 壱幸

 

 

学問の技法レポート6

 

 今回の話題は議論。その中でも「会話」を楽しもうというテーマについて考えてみたい。

 日本人は語彙に乏しいと言われている…つまりほかの国に比べると、単純に言葉でコミュニケーションをとる手段が少ないことになる。古代ギリシャ、ローマなどでは弁論術が発展し、ソフィストと呼ばれる人たちが活躍した時代があった。彼らにとって言葉とは学問になり、研究する必要があるほど重要なものだったのだ。

言葉は他人に自分の意思を伝え、相手の思いを感じることのできる一番簡単な方法である。一方それらが特別に発達しなかった日本では、レジュメにも書かれているように以心伝心という方法を用いてきた。これは英米人の方に聞いたところまったく理解できないことのようである。ここでは言葉は必要ない。相手の気持ちになって考えるだけでいいのである。ものごとをあまりはっきりさせず、ごまかし何とかみんなと調和をはかろうという、集団主義的な日本人の傾向が現れているようにも思える。そしてこれらのことは現代のわれわれにも受け継がれているように思う。まさに自分がそんな気がする。自分は議論をすることは好きである。なぜなら議論とは自分の説をできるだけ論理立てて相手と戦うことであり、それは言葉を使った1対1の一種のゲームのように感じるからだ。そのとき、相手とまったく同じ意見であることはほとんどなく、必ずしも相手の述べることを受け入れる必要もない。しかし、会話となるとあまり思うようにいかないことがある。相手の話を聞くとき、適度にうなずきあたかも相手の言っていることを理解しているかのように振舞うことがある。会話は戦いではない。相手とコミュニケーションをとることが目的である。何か納得できないことがあっても、そこではどうしても相手に不快な思いをさせたくないという気持ちが働く。しかしなんと言っていいかよくわからず、会話が止まってしまう。

また、会話が苦手だと意識させられる場面として携帯電話があげられる。何か友達に用があるときでも、電話で聞くより、メールで済ませてしまおうと考えることが多い。相手の顔が見えず、うまく意思が伝えられなかったときが怖く感じるのだ。時には恋人に対してさえもそういう気持ちになってしまうことがある。声は聴きたいのだが、それ以上の会話の楽しみは何なのだろう。メールのほうが安いし…。たまに電話をかけても微妙な話の内容で終わってしまうことがよくある。もし会話に対して楽しみを感じることができるなら、電話をするのが楽しみでしかたがないだろうに…。

やはり会話を楽しむためには、言葉を話すということに対して積極的になる必要があると思う。さらにいうと私的な会話より、公的な会話の場面で慣れていない人や知らない人と話をすることのほうがコミュニケーションをとる訓練としてはいいと思う。なぜなら、私的な会話は、ついたわいもないおしゃべりとなってしまうことが多い。また知り合いと話しても、ところどころ以心伝心で済ましてしまうことも出てくる。そうならないためにも、多様な人間関係を気づくことで、様々なコミュニケーションのとり方を身に付けることが必要になると考える。

 

批判・追加レポート

〈T.国立大学改革案に対して〉

この改革案にはいくつか問題点があると思われる。

まず、この改革案は国立大学が民営化されることを前提としている。民営化=ビジネスである。経営者は利益を上げることを当然考えなければならない。民営化により国からの補助金はかなり減る。また、奨学金制度などのオプションを増やすことにより、大学はかなりの資金が必要となる。そこで大学側は資金を集めるために学費を上げることが予想される。学生は長期間学習(改革案では約4年延長と仮定)+学費増により金銭的な負担は現制度より数倍増える。卒業後、多くの人は20代半ばから後半にかけて就職するだろう。ここで女性に焦点を当ててみたいと思う。私が考えるこのシステムの最大の問題は、結婚者数の減少、それに伴う少子化の促進である。学生は卒業後、今まで借りてきたローンを返さなくてはならない。しかし、先にも述べたようにこの負担はかなり大きなものである。これは男女ともに変わらない。長い時間と労力をかけて返済しなくてはならない。もしここで仕事をやめてしまえば多額のローンが残り、今までの大学での努力は無駄となり、さらに将来的には数千万と予想される収入も失ってしまう。改善されつつあるとはいえ、女性の社会進出、とくに妊娠、出産、育児後の仕事復帰の環境は決していいとはいえない。確かに女性にとって結婚とは人生最大の幸福といわれているが、果たしてこのような状況で簡単に結婚をしようと考えるだろうか。少なくとも家庭に入り主婦業に専念しようと考える人はまずいないであろう。女性の婚期はさらに遅れ、よって生まれてくる子供の数は激減=数十年後の大学入学者数も減る。大学は更なる学費の増加を余儀なくされ、大学入学者数はさらに減少…という悪循環が繰り返され大学の経営は破綻、延いては日本社会の破綻にもつながる可能性があると思われる。

2番目の問題として、この1次選抜試験方式では合格ラインが低すぎることである。高校生のうちに学力を固めることは重要である。現在、日本の高校生の学力レベルは先進国の中でも高いとは言えず、勉強に対する関心も低い。また文部科学省のゆとり教育の方針によりこれからますます学力は低下していくものと思われる。しかしこの改革案では逆に考えると高校時代をいいかげんにすごしても大丈夫であるかのような解釈ができる。むしろ都合よくそう考える人のほうが多いのではないだろうか。私は高校で培った学力を基にして大学でさらに発展したことが勉強できると考える。よって、この改革案は不適当であると考える。

そして3番目の問題として、教養科目による選抜試験では判定の基準が不明瞭なことである。教養科目は多種多様である。それでは統一科目を出題することは難しく、また統一させては生徒の興味を削ぐことになり、学生の学問の自由を侵害してしまう。大学で様々な経験をするためにも、この改革案は不適当であると考える。

以上の点から、この改革案には反対である。

 

〈U.プライドについて〉

「学問」をするために中身のないプライドを捨てる必要は本当にあるのだろうか。自分は逆にプライドは持っているべきだと思う。プライドの持ち方によっては、おおいに自分を高めることにつながることもあるのではないか。自分もいままで頑張って勉強をし、この大学に入ったことに関して多少のプライドは持っている。ほかにも同じように考えている人はいるだろう。しかしそのプライドを守るために、勉強しているところを見せないようにして、他人から頭がいいとおもわれていたいという考えは理解できない。自分がそのプライドを守ろうとするなら、おそらくまわりに負けたくないという思い、または他人よりいい結果を残そうと思ってよりいっそう頑張ろうと思うはずである。よってプライドは持つべきである。

 

〈V.知性と感性の二分法について〉

 自分は大学入試に芸術科目を課す必要はまったくないと考える。なぜなら、芸術とは人それぞれによって感じることが異なるものであり、それを客観的に第三者が判断することは難しいからである。

自分は今の学校での芸術科目の指導方法に疑問を感じる。特に自分が中学生の頃の「美術」だ。手法についてアドバイスを受ける程度ならまだ許せる。しかし、なぜ自分が創造したものを他人(教師)に判断され、挙句の果てに修正される。これが一番理解できない。これではもう自分の作品ではなくなっているのではないだろうか。何か自分の感性が否定されたような気がした。成績に関しても不満がある。数学や英語のようにはっきりと結果が出るものには誰も不満は言わない。しかし、美術はどうだ。ただ教師の目から見た評価だけで成績が出てしまう。美術などというものは個人によって、感じとるものが様々だ。特にいい例がピカソだ。これは本当に昔から納得がいかない。世の中では彼の絵を数千万円から数億円で買う人がいる。しかし自分には彼の絵のよさがまったくわからない。中学の美術部の作品のほうがよっぽどマシだと思う。そういうわけで、ほんとに美術が嫌いになった(もともとあまり好きではなかったが…)。そのようなあいまいで理解しづらい他人の判断に納得できるのだろうか。しかもそれを大学受験でおこなうとは…。(余分なことだが、先生はその内容は音楽史などのようなものでもよいとおっしゃっていたが、それでは知性を試していることになるのではないのか?しかも音楽に関する人名や文化程度の内容なら世界史のセンター試験のレベルにも少し出てくる内容でもあるし。)とにかく、以上のことからも大学入試に芸術科目を課す必要はないと思われる。

 では、芸術はどのようにあるべきなのだろうか。自分はスポーツと同じようなものと考える。ただ趣味程度に音楽を聴いたり、絵を描いたりするもよし。生涯真剣に取り組むもよし。やはりそれは個人に任せるべきことであって、誰かに干渉されるべきことではないと思う。自分が気に入ったものを選べばいい。やめたければ勝手にやめればいい。個人個人が自分なりの面白さを発見し、自分なりに追求していくことでその人にとっての芸術というものが形作られていき、自分独特の感性が養われるのだと思う。

日本人は知性ばかり養って文化的に世界と比べると低いといわれるが、それもまた日本の文化的な特徴の一つとして言えるのではないか。これほどまじめに働く人種もなかなかいない。それは自信を持っていいことだと思う。

 

〈W.感想批評を書くことを前提に読書をするについて〉

自分はこのことに関しては反対である。これは小学生時代の夏休みを振り返ってみたときに必ずでてくる、いわゆる「読書感想文」と同じようなものであると考える。これには前から少々疑問であった。どうして感想を書くために本を読まなければいけないのか。ただ本を読むだけではだめなのだろうか。そんなこと夏休みが終わってからやればいいことなのに…。感想とは何かをした後に始めて出てくるものである。ときには短い感想もあれば、またあるときには言い尽くすことのできないくらいの感想が生まれることもある。なかには、まったく何の感想も出てこないほどつまらないことに出くわすこともある。それらはすべて、何をするかによって変わってくるものであり、読書においては、どの本を読んだかによって変わってくるものである。これは前のレポートに書いたことと重なってしまうが、恋愛において特定の好きな人もいないのに恋人を求めるようなものである。本来重要なのは自分の気持ちであり、恋人が欲しいというのはその気持ちがあってこそのことである。読書においても重要なことは自分が何を感じるかであり、それを文として書くことは二の次である。つまり、「感想と批評を書くことを前提に読書をする」ということは本末転倒であり矛盾であると考える。

「書く」ということはある程度の文となることが必要である。先にも述べたとおり、感想とはその対象によって様々である。本を読んだとき、自分の中にはっきりとした感想やそれに対する意見がうまれればよいが必ずしもそういうときばかりではない。本を読んでみてつまらないと思うこともあれば、読んでみたもののその内容が理解できないこともある。本を読んでみても、感想を書くことができなければその本を読んだ意味がないということになってしまうのであろうか。たいした感想もないのに無理に感想を書こうとすることにはたして意味があるのだろうか。また、感想を書くことを前提に本を読むようでは、読書の本来の意義が生まれない可能性も出てくるかもしれない。自分は読書とは、その本を読んでみてその人なりの新たな知識、興味関心、意見感想などを得ることに価値があると考える。またそうなるためには自然体になって本を読み素直に本の内容を受け入れることが必要になると考える。しかし感想を書くことを前提とし、それを書こうと思いすぎると余分なことにまで気をとられるようになり、逆に自分の素直な感想が書けなくなってしまうのではないか。

よって読書をするときにはわざわざ感想と批評を書くことを前提にする必要はないと思う。

 

〈X.長所と短所を同じくらい長く述べることについて〉

 長所と短所を同じくらい長く述べる必要は本当にあるのだろうか。自分の評価が別の人に誤って伝わることを防ぐためだという。しかしこれでは自分の本当に伝えたいポイントが一方の意見と対等になることで伝わらなくなるのではないか。自分の意見はごまかさずはっきり言えばいいと思う。他人がレッテルを貼らないようにするにはあらかじめ「自分はこう思う…。」と一般的意見ではなく自分個人の意見であるということを強調するべきであると思う。ここで重要であるのはレッテルを貼るとか貼らないかということではなく、他人に流されない自分の意見を持つことができるかどうかということである。普段から、周りがなにを言おうが自分の意見をもつという意識を持つべきである。

 

 

 

 

 

「学問の技法」まとめレポート 22040133 竹腰達哉

 

0.はじめに

3ヶ月間にわたる講義の中で、レポートとして書き溜めた文章の気に入らない部分などに手を加えて編集しました。今までやってきたことを、まとめて振り返ってみようと思います。

 

1.大学改革案の感想

この講義を受けて、今まで高校や義務教育で受けてきた授業とはぜんぜん違って、高校までの授業のようにものを考えなくてもよい授業よりは楽しいなぁ、と思った。大学改革の最大の目的は、学生の学力を向上させ、しっかりとした一般教養を身につけることだが、大学の改革だけでは目的の達成には不十分だろう。やっぱり、高校などの改革も必要で、もっと学問に興味が持てる環境にしなければならない。学校の授業(大学だって例外ではない)には双方向性がほとんどないものが多く、この講義のような自分で考えるという授業がほとんど行われていない。これでは今の若い人が、学問に興味を持てないのは当然かなと思う。

改革案について、全体的にはなかなかよい検討がされているという印象を持った。同時にいくつか疑問に思った点があったので、その点について意見を述べたい。まず、授業料の改革案についてだが、授業料を大幅に上げるということには反対だ。ローンを組めばよいとのことだが、私は高校を出たばかりの人には負担が重たいという考えに賛成しているわけではない。逆に大人としての自覚が持ててよいとも思うし、実際に負担が増えるのは、成人してからになるからだ。気になる点は、自分で借金したからといって本当にやる気が出るのかということだ。たとえアメリカで成功しているといっても、日本で成功するとは限らない。特に日本人は自主性を欠くと言われている。現在でも奨学金制度があり、ローン制度はこれを民間で大規模にやるのと変わらないが、奨学金制度が日本で成功しているとはいえない。奨学金を受けた人の一割以上が返せなくなっているという現実があるのだ。これは、フリーターの増加や、就職しても給料が安いといった現在の社会情勢がかかわっているが、現状でこの制度を行っても、貸し渋りだとか、金利が高くて借りられないとか、いずれにしても所得の低い階層は大学(特に私立)に行きにくくなるということは間違いない。

もうひとつ気になった点で、改革案には1,2年次を自己発見期間にするというものがあるが、実際に自分の好きなことや興味のあることを、現在のように高校3年間で見つけるというのは大変難しい。ある程度の教養期間は大学生になってからも必要だろう。ただし、本当に学びたいことを探すという観点から、数多くの良質な学習機会が必要であり、授業科目の削減はその目的に反する。むしろ外部の民間人を積極登用するなど授業を大幅に増やすほうがよい。いずれにせよ、教養がいいかげんな大学には、人が集まらないだろう。ついでだが、現在は人生80年の時代なのだから、大学の教養課程の授業を一般の人も容易に受けられるようにするとよいと思う。学生にいろいろな出会いや経験をさせるなど、人的交流にもつながるうえ、生涯学習の機会を市民に提供し、大学の存在意義は高まるだろう。ボランティアや職業資格に関する講義などは、特にニーズが高いに違いない。国立私立を問わず、その地域に存在意義がない大学は真っ先に競争から姿を消すことになる。

大学改革の意義はしっかりとした教養のある人間を育てるシステムを構築することである。そのことに関して30歳で一人前であると認めて成人とし、選挙権を与えてはどうかという提案があった。確かに、20代の人にも成人としては少し心配だと思う人がいて、本当に大人らしくなるのは30歳位というのが今の世の中では普通なのかなと思う。しかし、20代の人の中にも(10代の人にだって)しっかりした人はいる。選挙に興味がない人は投票しなければよいだけの話だ。大切なことは、人生のできるだけ早いうちに教養を身につけるシステムを作ることであり、この目的が大学改革によって達成できれば、よりよい社会になるだろうと信じている。

 

.学問について考える

学問とはなんだろうか。改めて考えてみるとこれが難しい。高校までの学校の授業の中でやってきたことは、学問ではなくて勉強であるようだ。勉強というのは答え、または答え方を学ぶものであるが、学問において重要なのは、「問」という言葉が使われているように、問うことが最も中心にすえられているということである。もちろんただ問うだけでは意味がない。学問をする人たちはその答えを探しているはずである。学問をすることの最大の意義は、ここにあるのだと考える。つまり、新しい発見をすることである。勉強はこの発見の積み重ねを学ぶためにある。そこで、学問を始めるには知識があることが前提条件になる。つまり学問は勉強で得た知識を利用して初めて行われるものなのだ。社会の発展という視点で見れば、学問と勉強は絶対に切り離せないものなのである。ところが一方で、個人単位の視点を考えてみると、必ずしも学問は必要なものとはなっていないようである。学問を難しいものや高貴なものとしてみなす風潮があり、また世の中では勉強さえすればよいようなシステムになっている。社会の発展には学問が欠かせないにもかかわらず、である。

ところで、私たちは一般的に高校までは勉強することになっているが、学問を行う前提条件としては、これは欠くことができない。学問をするところである大学に入るためには、どうしても必要なことである。そしてその勉強は、大学で学問を行う上で前提となるようである。おそらく私たちが、大学にもっとも期待していたことは、勉強ではなく学問(もしくはその「技法」の修得)だろうと思う。だとすれば大学の教養課程に不満を持つ人は少なくはないだろう。教養は勉強であって、学問ではない。高校ではないのだから、もっと学問的なことをやってほしい、というわけである。

私自身は大学の教養課程には満足している。この講義で本格的に学問に触れる機会ができたことは理由の一つではあると思うが、そもそも授業に出て新しいことを学ぶ、ということが楽しく、こうして物事を学んだとき、時として何か疑問に思うようなことがあったりするが、このような過程こそが学問における「問い」を見つけるものと、同じようなものと思ったりするのである。知識を問いに変えること、これが学問における最初の一歩であるわけだが、いろいろ新しいことを学ぶうちに、その機会は意外とたくさんあることがわかってきた。

一方で、学ぶものはたくさんある。結果として、学問の範囲はとても広い。思うに人間が作った身の回りにあるものはすべて、学問から生まれたものだろう。例えば、衣服の必要性。経験という勉強の知識によって、寒さを理解し、それをしのぐにはどうすればよいかを考える。結論は何かを羽織ればよいということであった。答えが出てないものには、日本の教育制度はどうすれば一流になるか、とか、世界平和を達成するにはどうしたらよいか、というような、かなり難しい問題も数限りなく存在する。地球外生命体は存在するか、これも学問である。これらを考えるためには、勉強で学んだ知識が必要であり、逆に言えば、不十分かもしれないが、知識を持っていればいつでも学問をはじめられるわけである。せっかくの知識だから、持ち腐れにならないように、しっかりとものを考えていきたいと思う。

 

.知性と感性と教育制度

「知性と感性の二分法」について、とても興味深く思ったので、いろいろ考えてみたい。

日本の教育制度は「受験競争」という言葉に代表されるように、欧米諸国と比べて競争が激しいシステムになっている。特に、よい大学に入るために、知識に偏った勉強をしているのは紛れもない事実である。センター試験はその典型だとよく言われる。確かにそのとおりだろう。一方で文化的、芸術的感性を問わないものであるかどうかとは別の問題に思われる。まずは国語を見てほしい。これはどうやら解法というものがあるらしいが、結論から言ってセンスが求められている。たとえ解き方があったとしても、絶対ではないし、あくまで読み方を問われているからである。この観点から見れば、ほかの教科も感性を排除したものだとは思えない。

しかし、大学の側からすれば、それ以上に感性というものを求めているように思われる。AO入試などの流行もそれを示している。大学が求めているものは知識ではなく、感性なのである。すなわち、センター試験で要求している感性の水準は、大学側にとって不十分なのだ。さて、それではセンター試験には、芸術科目や論文科目を入れるべきなのだろうか。実際に導入するとなると、試験の平等性の評価が難しい。この問題を解決したとして考えてみよう。おそらく、これは欧米型の入試制度を導入したときには、実に望ましい制度となるだろう。1段階入試の場合は、一度の試験で知識と、そして大学で求められる感性とを同時に調べる必要があるからだ。それでは現在の2段階入試のままでいったとして、どうあるべきなのだろうか。

私は大学側の入試制度を変えるべきだと考える。センター試験は知識を問うものである。これはこのままでも良い。大学に入るためには、いずれにせよ最低限の知識は必要だからだ。そこで2次試験を変えてみてはどうだろう。各々の大学が求める感性というものをカタチにした問題を出題するのである。具体例をあげよう。たとえば数学なら、どれだけ解けたか、ではなく、センスがあるか、というところを重視する。数式ではなく、言葉だけで書く問題なんてどうだろうか。小論文も積極的に出せばよい。

感性を重視した教育は必要である。だが美術や音楽といった科目は必要なのだろうか。論文なんかと違って実用性はあまりない。この実用性というもの考えると、とても面白いことがわかる。はたして数学や理科、歴史なんていうものは必要なのだろうか。その道の人にとって必要なことは、美術にしても数学にしても同じである。ところが美術や音楽は、その道ではない人にとっても、しばしば有用なことがある。一般の人にとっては数学よりも、はるかに音楽のほうが身近で使えるのである。その点で、教育で美術や音楽をやることは、意味のあることだということができる。これらを入試でやるのは少し難しい。それよりも、義務教育で重点的にやるとか、高校でもっと重視したほうがよいと思う。

日本は大衆文化こそ栄えているものの、フランスやイタリアのように文化的な国であるとはいえない。これらの国では、観光業が重要な位置を占めているが、文化というものを大切にした結果である。現在、日本は観光立国をめざしているが、フランスのように文化的な国になれるだろうか。家について考えてみると、日本の家はたかだか2,30年で建て替える。街に一貫性がなくなり、文化的な街並みは作れない。一方、ヨーロッパの住宅は100年以上住むことができる。文化的なものが必要であるという意識のもとで、街づくりをしているのである。これは人々の感性の違いであると思う。これは文化に対する意識の違いでもある。ここにも感性教育の必要性がある。感性を大切にすることなく、文化的な生活を営むことはできないのだ。

 

.読書する意味を考える

大学に入ってから、時間が余ったらできるだけ本を読むようにしているが、もっと読書に興味が持てるように、改めて読書をするということについて考えてみたい。

本を読むということはどういうことなのだろうか。たとえば図書館に行って、ある小説を手に取ったとしよう。おそらくは純粋に読書を楽しみたいということだろう。文字を読んで、その情景を思い浮かべ、本に親しむ。あるいは漫画もそうかもしれない。この読書によって得られるものは、感性ではないだろうか。つまり、芸術的なセンスを養うことができるのである。一方で、知識を得るための読書がある。つまり大学の先生が書いたような本を読む場合である。こういう本は、大学の教養の教科書として用いられる場合がある。知識の習得を目的とするならば、それだけの価値があるのだ。さて、大学に入れば、積極的に勉強することを進められても、強制的に勉強させられることはない。読書も同じである。これらの本は大学の講義でも使われているようなものである。使い方によっては、誰でも、自分の好きな時に、好きな場所で、大学の講義に変わりうるような学習ができ、その知識を身につけることができる。さらに、数え切れないほどの本があり、ありとあらゆることを学ぶことができる。これは実に効率の良い勉強方法ではないだろうか。それから、自分の生き方を変えたり、より望ましい生活習慣をつけたりしたい場合は、いわゆる実用書を読めばいい。勉強法、速読術、読書術といった種類の本である。これらの本は1000円もせずに買うことができる。古本屋なら百円玉を何枚か出せば買える。これは実に安い買い物ではないかと思う。学校では教えてくれないが、あれば必ず役に立つものである。ただし、本を読むだけでは不十分で、日々の生活の中で実践し続けなければならない。実はこれが負担となって、なかなかできないかもしれないが、続けてやれば将来必ず役に立つに違いない。

以上のように考えると、本を読む目的は、教養を磨くことではないかと思う。感性や知識、人生のあり方というものまで、ありとあらゆる教養を身につけることができるのである。そういうような価値観で本を読むようになると、結構考え方が変わってくる。楽しまなければ本を読めないのではなく、知識とか教養を得ることを目的とすれば、おのずと読書の幅が広がってくる。とにかくいろいろな本をたくさん読む。読書の機会を得ることで、いろいろな教養を身につけることができる。本は読んで楽しむだけではなく、知識の源となり、自分自身の価値を高めてくれるものだと考えれば、本をもっと読みたくならないだろうか。

とはいっても、私自身は高校生のときはほとんど本を読んでいなかった。だいたい月1冊ぐらいしか読んでいなかったのではないかと思う。それは、ふつう高校生の読むような本というのは、子供向けの本に比べて面白いものは少なく、また私自身に本を読む目的の中に知識とか教養という概念がなかったからだと考えている。一方で小学生の頃は、毎週図書館に行って本を借り、一週間に少なくとも5冊は読んでいた。知識に関して言えば大学生が読んでもしょうがないような本かもしれないが、今になって意義があったなぁと思うことがある。児童文学や子供向けの科学書を中心にいろいろな本を読んでいたのだが、その中でも小学生のときに読んだ、ある相対性理論についての本はとても面白くて、何回も読み返した記憶がある。いま自分が物理学を勉強しているのは、間違いなくこの本を読んだおかげだ。

本を読む事では得られるものは、教養だけではない。たくさんの本を読み、その中のたった一冊でもいい。とにかく、今までとは違う世界を見ることができる本を探すこと。それがたくさん本を読むということの最大の意義ではないだろうか。

 

.古典を考える

ここでは「古典」という言葉を、カントやプラトンのような歴史的な名著としての意味ではなく、これから先の未来においても絶対的な価値があろうと考えられる著作という広い意味で考えたい。この意味でとっても、私はほとんど古典と呼ばれる本を読んだことはない。だが古典に書いてあるような考えをまったく知らないわけではない。倫理とか道徳というものがそれである。もちろん直接孔子や孟子の言葉を知らなくても、人としてやらなければならないことや、やってはいけないことはわかっている。これは家族や近所との付き合いから学ぶものである。そして学校教育でも古典を学ぶ。特に高校では、国語で中国や日本の古き良き文章に触れ、地歴公民ではアリストテレス、ロック、カント、マルクスといった思想は詳しく学ぶ。挙げればきりがないが、もうひとつ、物理学における古典を引き合いに出して、古典に興味が持てるように考えてみたい。

物理学で古典といえば、古典力学、すなわちニュートンの力学が思い浮かぶ。高校で習う物理はこれである。ニュートンは、一般に「プリンキピア」と呼ばれる歴史的大著を残している。この古典力学の考え方が支配する時代は200年にわたって続いているが、そののちマイケルソン・モーリーの実験などで、ニュートン力学に矛盾点が認識されるわけである。そして、このニュートン力学の矛盾を解決したのがアインシュタインであり、彼は相対性理論を打ち立てることになる。この理論の力学はニュートン力学を覆す、まったく新しい力学というわけではなく、古典力学を包含している。逆に言えば、ニュートンの力学を前提として、その実際との矛盾点を、合理的に理論付け、修正したものであるということができる。つまりこれは、旧来の科学にある矛盾点をより一般的な方向へ修正することで発展してきたという、科学の歴史を示すよい例である。

さてこのことを踏まえて、古典というものを考えよう。アインシュタインを自分に置き換えて考えてみるとどうなるか。とりあえずカントの「純粋理性批判」を読んでみる。いきなり読んで理解するということはできないだろうが、ほかのいろいろの本を読むうちに哲学の知識がつき、カントにとっての「自由」というものの考え方を理解できるかもしれない。これはニュートン力学を理解することに相当する。しかし本を読み、その考えを理解するだけでは発展しない。きっと満足いかないことが発生するはずである。そうすれば、その問題を解決するためにいろいろな努力をするだろう。納得のいく解決策が見つかるかもしれない。このような過程をたどって、あらゆる学問は発展していくのだろう。

つまり、あらゆる学問の基礎には古典というものが存在している。例えばアインシュタインなら、物理学の基本を理解したうえで、「光速近くで飛ぶロケットから光を見るとどのように見えるのか」という疑問を見つけ、より納得のいく考え方を模索していったのではないか。これが結果として相対性理論のきっかけとなった。古典を理解し、そこで初めて疑問点や気に入らないことを見つけることで、新しい理論や思想を作り上げることができる。逆に古典を理解しなければ、私たちに何か新しい発見をすることはできないだろう。

 

.議論を楽しくするために

ほかの人と会話する機会があっても、ほかの人と議論する機会はあまりないだろう。議論をするということのイメージは、どうやら日本ではあまり好まれていないような感じがする。その理由とともに、どうしたら議論をもっと楽しく行うことができるのか考えてみたいと思う。

よく、「日本人は議論が苦手だ」という話を聞く。積極的に議論を仕掛けてくる人もいないし、また自分からしようとも思わない。確かにそのとおりだと思う。その原因は、日本人のコミュニケーションのあり方、つまり何でも雰囲気で伝えようとする以心伝心の習慣によるものである、とよく言われる。言葉足らずの議論では、会話と同じということである。言葉が足りないとなぜ議論ができないのかというと、もちろん相手の言っていることの意味が正確に理解できなければ、反論なんてしようがないからだ。ここでちゃんと「言っていることの意味がわかりません」と質問すれば、議論は可能だ。質問しなければ、結局相手と折り合いをつけなければならず、「うん、うん」とうなずくだけで、これでは会話となんら変わりがなくなってしまう。相手に敬意を払ったつもりで相手の言っていることを理解しているふりをしても、まったく議論を行えず、発展の余地はない。相手の言おうとしていることを最大限理解しようとすることこそ、お互いのためでもあるし、相手に対して敬意を払うことになるような気がするが、どうしてそうしないのかということを考えてみなければならないと思う。

ところで、どうして議論をする必要があるのだろう。私たちが日常生活でしているような会話は、互いの知識を交換するとか、新しい考え方を発見するという点で役に立つ。これは議論についても同じことが言える。しかし、会話は何らかのコンセンサスを得るものではない。一方で議論について言えば、この最終的な目的は、互いの親睦を深めることでも、自分の意見を無理やり飲ませることでもない。相手を説得し、できるだけ自分の主張が通るように論理を組み立て交渉し、何らかの妥協点を見つけることではないだろうか。これは一種のゲームである。この点で会話とは決定的に異なっている。

さて、それではどうすれば、議論を楽しく行えるのか。まずは相手の言っていることをしっかりと把握することである。そのためには相手の主張についての疑問点を取り除くことが大切である。その上でどのように議論すればよいだろうか。議論をあくまで駆け引きであるとか、交渉であると考えると、自分の感想を述べるだけでは説得力がない。つまり、論理的に説明し、相手を納得させなければならないのである。そして相手の言っていることに、もし異論があるのなら、論理をもってしっかりと批判しなければ、議論は発展しないだろう。ここで大切なのは、相手を批判するのではなく、相手の意見を批判するということである。ほかの人を傷つけるようなことは、言うまでもなく議論を行うものとしてあるべき立場ではない。もし自分の意見を批判されて傷つくのならば、それはあまりにも自分の考えに固執しているということであり、議論の目的とは相容れないものである。これらのことを理解していれば、お互いに楽しい議論を行うことができるはずである。

 

10.学問の技法 批判と追加

批判と追加を書けということなので、思いつくままに書いてみようと思う。

まず(P3L9)に「学問、受験の偏差値が高い人たちが営む」とあるが、これを否定しても、「新しい問いを発すること」が出てくることはないのではないかと思う。学問は誰にでもすることができると言うことを間に挟んでつないだ方がいいのではないか。

P3)の後半に「二〇世紀の中ごろから現在に至るまでの日本人は、過剰な受験競争を煽る非人間的な教育制度に翻弄されてきた」とあるが、この前提条件は少し言いすぎではないだろうか。「四当五落」という言葉もほとんど聞かない。私も実際に受験してそれほど過剰な競争ではないと感じた。少子化はすでに十分すすんでいるのではないか。以前は受験競争が激しかったようだが、現在はもうすでにそれほどでもないという感じがする。

それから「非人間的な教育制度」という言葉は言いすぎではないかと思う。高校までの間、学問をせずに詰め込み型の勉強をすることは、「非人間的」といいたいのかもしれないが、(P2)の終わりから書かれているように、学問をするためには勉強することは絶対に欠かせない。とりわけ詰め込み教育は、学問の機会を奪う代わりに、その前提となる知識を形成するには、最も効率的なやり方である。大学生までにしっかり知識をつけておけば、大学に入ってからもすぐ学問するために生かすことができるといえないだろうか。

また、反対に「人間的な教育制度」とはどのようなものになるのだろうか。アメリカのように、高校生にもっと自由を与えるのだろうか。ただでさえレベルの低い大学教育制度であるのに、アメリカのように失敗した高等教育制度を導入すれば、さらに悪い事態を生み出すのは目に見えている。ただ好きなことを好きなだけさせるような教育制度を「人間的な教育制度」といえるのだろうか。

その直前に「受験のテクニック」という言葉が述べられている。しかし私にはこの具体例がよくわからない。もしかして、いわゆる解法というやつなのだろうか。それとも裏技のことなのか。解法という意味ならば、これは普通の勉強であり、テクニックではない。数学を勉強するというのは解法を学ぶことであるのと同じである。例えば赤本を何度も解くとか、センター数学でわからないときは12を入れるとよいとか、そういう裏技を意味するのなら、それはテクニックであろう。できればもうちょっと語句の意味の説明がほしい。

P5)の終わりからの文章を読んでいて、ちょっと考えたこと。学問の続け方というのも考えてみたい。次のような研究結果がある。目隠しして100mを一気に歩くよりも、目隠しして20m歩くのを5回繰返した方が、結局はまっすぐ歩くことができる。つまり、学問を習慣づけるためには、小さな目標を立てて、それをコツコツと実践していくのが、一番の王道であるということだ。例えば、毎週一冊岩波文庫を読むという目標を立てる。これを2年間実行すれば、100冊読む計算になる。この講義でやっているように、毎週1000字の文章を書くという習慣をつければ、一年間で50000字以上、ちょっとした本が書けそうだ。「ドラえもん」でのび太のママが、いつも宿題しなさいとか言っているのも正しい。学問を始めるにしても、こつこつやることを奨めてはどうだろうか。

P8)中身のないプライドを考えてみる。「授業に出席すると・・・」(L6)というところについて。頭がいいと思っているひともいるとすると、頭が悪いと思っているひともいる。頭の悪いと思っているひとでも「勉強しないが頭のいいひと」と思われたいのではないか。

また、「頭のいいと思っているひと」なんてそもそもいるのだろうか。いたとしたら、その人は(少なくともその人自身にとっては)本当に授業に出る必要はないのではないか。そうするとプライドなんて関係ない。

P26)大学入試に美術や音楽を追加したほうがいいと書かれているが、やはり現実的には難しいような気がする。つまり、芸術や音楽といった科目は、数学で計算が必要であるように、実際に手を動かして初めて、そのセンスの評価ができるものだからだ。だから大学入試で効率よくやり、また公正に評価するのは難しいだろう。さらに、入試なんかに無理して取り入れると、それはそれで、ただ受験勉強が大変になるぐらいにしか、受験生は考えないであろう。結局今の詰め込み型の入試制度を促進することになりはしないか、心配である。代わりと言っては何だが、高校では、芸術科目をほとんどやらないところがあるようである。また、大学の教養課程でもそういうことはほとんど行われていない。現実的には、こういうところで芸術科目を行う機会を増やしてはどうだろうか。小学校や中学校では必ず芸術の授業はある。算数や数学と同様に、もっとも基礎的な科目のひとつとして位置づけられている。これを大学の教養課程でもできないだろうか。音楽は嫌いではないが、どうにも触れる機会のない人は多いと思う。積極的に音楽はじめ芸術科目を薦めることで、もっと芸術に対する興味がわくのではないか。もうひとつ入試制度に関しては、バカロレアでは、小論文みたいなものを課しているそうだが、これはとてもいいことだ。文章を書くときというのは、最も頭を使うときだと思う。センター試験で出せとは言わないが、日本の大学でも文章力を問う問題(数学なら説明問題とか。東京理科大で出題し、話題になったことがある)を積極的に出したらどうだろう。感性を調べるのが目的ならば、芸術よりも作文のほうがずっとよいのではないか。本文のようなやり方では、芸術科目で受験競争を促すだけである。実際に小論文を行う大学が増えているように、文章を書くことで評価するほうがずっとよい。

P291824歳までになすべきことは何か、ということでいろいろと偉大な人々の例が挙げられている。「人生80年時代であり、何もそんなに若いうちにすごいことをする必要はないだろうという人もいるが、できるならみんなやっている。たとえこのようなすごいことができなくても、若いうちに自分の好きなことに打ち込んだり、何か大きなことにチャレンジしたりすることが大切である」というような趣旨のコメントがあると学生としては非常にうれしい。あと、デカルトの例が載っているが、これは違うと思う。何もしてないのでは?

 P51)「感想と批評を書くことを前提に読書する」とある。しかし実際に感想や批評を書くと、これは結構大変である。いちいち書くのは本当に面倒くさくて、私はあんまりお勧めしない。本を読む気がなくなってしまうからだ。確かに感想をとっておけば、記憶には残り、また後で役に立つだろう。しかしその大変さを考えると、それよりも読書の記録を簡単にとっておくのがいいと思う。これは私のやっていることだが、読んだ日付と、ほんの2,3言のメモを取っておけば十分ではないか。本当にいい本に出会って、いろいろなことを考えてみたいと思ったら、そのときは自然とたくさん書いているはずである。

P57,L32)「議論というものは、決してお互いにコンセンサスを得るためにするのではない」とあるが、これはおかしい。私たちが日常生活で行っている会話は、明らかにコンセンサスを得るものではなく、互いの親睦を深めるためのものである。一方議論というものは、相手を説得して、自分の主張ができるだけ通るように論理立てて話し、結局は何かの妥協点を見つけるものである。それでも合意を求めず、ただ親睦を深めたりするのが目的ならば、会話と変わらない。議論は勝負をつけるものではないのは確かだが、相手を説得して、そして相手の主張の合理性も受け入れながら、ひとつのコンセンサスを作ることが議論の目的だと思う。

議論についてもうひとつ。講義の中で批判と非難は違うということを取り上げていたが、これも重要なことだと思う。非難というのは誹謗中傷であり、議論を行う上で大切な、理性的な態度とは相容れないものある。私は非難というものが不快を与えるものというよりも、むしろ相手個人を攻撃することだと思う。反対に個人ではなく、相手の思想、つまり「神」だが、これを攻撃しあうのが議論である。このことは議論の作法としてとても大切なことだと思う。つまり、議論を行うときには感情を発露するのではなく、あくまで駆け引きや交渉、あるいはゲームであると考えるとよい。論理的に説明することで相手を納得させ、そうして自分に有利な合意を引き出すということだろう。その際は相手の(「神」が主張する)意見を攻撃する。もしこれでその人が傷つくならば、あまりに自分の「神」と一心同体であるということだ。そのときは、議論はできない。

(P70)メモ魔について、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一の場合。

「夜中とか未明に発想が浮かぶ。電気をつけたり、起き出したりするだけでは着想が消し飛ぶ。福井は発想が浮かんだとたんに枕元のメモ用紙をとり、鉛筆ですぐ書きつけた。長年の修練で、暗闇で字を書く手並みは堂に入っていた。」「よく、メモをしないでも覚えているような思いつきこそ大切だ、と人はいう。しかし、福井謙一は、それは大したものではない、メモをしないとすぐ忘れてしまうような着想こそ貴重なのだ、という。」(大宮信光『世界を変えた科学の大理論100』)

これは大変見習うべきことだと思う。これを参考にして、私もポケットにメモ帳とボールペンを入れている。アイディアが浮かんだときにすぐメモできるだけでなく、本を読んでいるときや、掲示を書き留めるときなどに、すぐ取り出せると便利だ。結構意外なところで役に立つ。

 

11.最後に

まず反省点について、全体的に批判精神に欠けた文章だと感じました。建設的な批判をして書いているつもりなのですが、それを隠してしまっているようで、批判的でないような感じがします。改めて文章の書き方を勉強する必要があるように思います。

最後に感想です。大学に入って初めてこの授業を受けたときは、今までと全く違う授業スタイルだったので、ちょっと戸惑うところもありました。その一方で、大学の授業はこういうものであったらいいなという期待通りのものでした。約3ヶ月間にわたって、いろいろとレポートを書いてきたわけですが、ずいぶんたくさん書いたんだなぁという気がします。間違いなく今までの人生で一番たくさん文章を書きました。強制的にでも書かされる機会がないとなかなかものを書く気にはなりませんが、これからも続けたいと思います。そこで、ちょこちょこ随筆のようなものでも書き溜めていこうと考えています。

2004723

 

『学問の技法』についてのコメント

15040156   竹本 哲也

 今回は今までに提出してきたレポートのまとめと追加ということなので、今まで自分が書いてきた文章と『学問の技法』を改めて読み返してみて思ったことを疑問、批判を中心として書いていこうと思う。

 しかし、とは言ったものの、いざ書こうと思ってもなかなか進まない。そこで、なぜ書くことがなかなか思い浮かばないかと考えてみたところ、それは著書の内容が抽象的というか、先生のご自分の経験をもとにして書かれているためか、どこか独断的であるために、同じ経験を共有していないものとしては理解し、批判するのが難しくなっているのではないかと思った。冒頭から言い訳をしてしまったが、とりあえず以上のような理由により細かい点の指摘はしにくいので、まず全体的なイメージに関連することを中心として書いていこうと思う。

 第一に改めて全文を読んでみて思ったことなのだが、この本はどんな読者を対象にして、どんな効用を目的としているのかがよくわからない。はじめにのところで大学に入る前の人や、すでに卒業した人、在学しているが悩んでいる人などを対象としてあげているが、後半のほうは大学に入学する以前の人や、やる気を失っている人にとっては難易度が高いというか、書かれている内容の範囲が狭すぎて学問の入門書という性格はなくなっているのではないかと感じた。もっと広範な範囲を取り扱ったほうが読者の興味を引き立て、学問への情熱を掻き立てられるのではないだろうか。ちなみに、ここで述べた事はP69の【読者を想定する】で書かれている事と関連していると思われる。さらに、なんといっても、私自身この本を読んでも今すぐに学問に励もうという感情にはならなかったわけで、このことが私がこの本の目的がわかりづらいといった最大の理由である。付け加えるが、確かに私はこの『学問の技法』を読んで直接的には学問への情熱を掻き立てられたわけではないが、この本を読んで無駄だと思ったわけではない。というのはこの本を読むと読書への意欲はなみなみとわいてくるのだ。講義の後や、レポートを書いた後などは特に本屋へ行って本を買いあさって、読書に耽りたいとよく思った。読書への興味を起こさせるというのは確かに学問への興味に通じることかもしれないが、(とくに文系の自分にとっては)やはり、読書に主眼を置くならば、『学問の技法』ではなく『読書の技法』としたほうが適切ではないか。

 第二の指摘に移りたいと思う。それは現在の大学や受験の制度に対する批判や具体的な改善案も示すべきではないかということである。最初の講義の時に先生がおっしゃったような改革案についてである。あの案自体は個人的には実現可能性から見ても、内容から見ても多くの問題を含んでいたと思うが、よりよい教育環境にするための方策についての思索というのはこの本の趣旨からもはずれていないのではないか。それと関連して、大学の教員に対する批判が少ないという印象も受けた。大学に入りたての私が思うに彼らの姿勢には多くの問題があるのではないか。これは身勝手な発想かもしれないが、教員はもっと学生の学問へのやる気を引き出すような努力が必要だ。学問とは自ら問いを発することで、学生の自主性しだいであることはよくわかるのだが、特に一年生は学問の素人であるのだから、学問のプロとして一年生がうまくきっかけをつかめるように導いていくことが必要なのではないか。さらに、一年生時の全学教育というのはそのような効用が求められているはずだが、私の実感としてはあまり機能していないように感じる。このように数ヶ月の大学生活を通してもさまざまな問題があったわけで、もっと大学制度についての批判を載せるべきではないかと思われた。一年生時の教育についての話題がでたのでついでに述べておくが、以前他の授業で読んだ立花隆の論文で教養学習の重要性について書かれたものがあって、納得する点が多々あり改革案の参考になるのではないかと思われたので付け加えておく。

 第三に思ったことは、みんながみんな先生のように学問に向いた人間ばかりではないということだ。毎日毎日本を読んだり、思索に耽ったり、常に知的な生活を送るなど一般人からみたら無理な話なのだ。確かにそれが理想的であることはこの本を読み終えればわかる、いや常識的に考えてもある程度察しがつく。しかしそんな生活が難しいことは自分の生活を省みてみれば、もしくは実際にやってみればわかることではないか。この本にはそういう一般人の感覚が抜けているように感じる。だからこそ、読んでいてもなにか実感を伴わない、雲をつかむような感じをうけるのだ。なにを隠そう私自身この3ヶ月ほど「学問の技法」の講義を受けてきたが、現在全くもって知的な生活など送っていないのだ。読書もあまり進んでいないし、学校の勉強もあまりかんばしくないようだ。明日も語学のテストだというのに全然勉強していない。さらに、このレポートもまだ終わりそうに無い、4000字まではあとどれほど書けばよいのだろうか。それにしても、なんともダメな大学生活を送っていると感じることが最近よくある。遊びやサークルなどにばかり時間を費やして授業や勉強はそっちのけである。実は「学問の技法」の講義も3回ほど欠席しており、単位がもらえるのか気がかりでしょうがないほどだ。というように、講義の最初の頃に先生がレポートで書く事に困ったら個人的な日記などを書いてもよいと言っていたのを真に受けて、個人的な自分のダメさを長々と書いてみたが、要するにいいたいことは自分のようにそうすればいいとわかっていても実際にやろうとすると途中でくじけてしまったりする人間がいるということ、むしろそのような人間のほうが多いということを考慮にいれるべきではないかということである。そうしないと私のような人間からしてみれば、独りよがりな文章であるという印象が残ってしまう。

 ここからは今までに提出した小レポートの内容をまとめて書こうと思う。しかし改めて自分の書いた文章を読み返してみると、批判は少なく肯定かもしくはあまり関係の無い感想ばかりが書いてあることに気づかされた。やはりある程度熟考された文章を私のような素人が批判するのは難しいことであり、十分な準備とこういう時こそ日々の思索が必要となるのだろうと感じさせられた。それはともかくその中でも批判めいたものを抜粋していこうと思う。まずは学問は遊びであるという事に関して、それはその通りだと思ったのだが、そのあとで学問に一番近いはずの学者が社会から敬遠されているというようなことが書かれていたので疑問に思ったのだ。実際には学者は好きなことを続けられ、そして社会的ステータスも与えられる夢のような職業ではないかと思う。だから学者は学問という遊びを独占するばかりでなく、一般の人を広く啓蒙するような積極的な活動をするべきではないか。

 次に多読についてだが、『学問の技法』の中では多読を推奨していたが、ふつうの大学生にとって読書にそれほどの時間を費やすことはできないのではないか。本を読む以外にも大学生時代にするべきことはたくさんあるだろうし、社会に出た後のほうがさらに読書に費やす時間など取れなくなるだろう。大学の教員のように時間をもてあましていて、読書が仕事に直接つながる人など多くは無いのだから、安易に多読を薦めるのはよくないのではないかと思う。社会を支える普通の会社員の人たちが読書という遊びにばかり興じるようになったら、社会は正常には動かない。そのような現実的な視点からの考察も必要であろう。

 最後に本とは直接関係無いかもしれないが、講義の内容について述べたいと思う。まず、読書についての話が多すぎたのではないか。このことは先ほども指摘したことだが中盤はほとんど読書論に終始しており「学問の技法」ではなく「読書の技法」という講義を受けている感じがした。それは毎回書いていたレポートについても言えることで、学問の技法というのだからレポートの指導もしていただけるのかと当初思っていたが、レポートは書いたら書きっぱなしになっていたように思う。具体的に添削などをしていただけたらいいのにとずっと思っていた。さらに毎回行われていたグループによる議論だが、あまり機能していなかったように思う。『学問の技法』でも取り上げられていたが、学問において議論は重要なものである。しかし同時に初心者にとっては難しいものでもある。私のグループでは書いてある事を読んで、しばらく話すと議論が止まってしまうのが毎回の事であった。

やはりどのように議論するのかという模範などが示されないと難しいと思う。独創的な議論の型を求めるというのもおかしな話だが、基礎がなければ自分たちで磨いていこうとしても無理ではないか。そして講義の後半で行った散歩についてだが、【逍遥学派になろう】のところで散歩のすすめが書かれているが、やはりあの講義の時間にやった散歩はお粗末であったように思う。ぜひともその失敗談を載せてみてはどうだろうか。

 ここまでおもいつくままに批判のようなものを列挙してきたが、やはり一番思うのはこの本を読んで学問に対する意識をそれほど変える人がいるのか疑問であるということである。それはこの本を手に取る人がどんな人を想定しているかがわかりにくいからだとも思う。

 このように長いレポートを書くのは始めてだったので一貫した文章を書くのは難しいということを痛感させられた。おそらく誤字脱字も多数あるだろうし、批判といっても文法上の誤りや語句の定義などについては私自身が理解していないので指摘しようが無いというありさまであることをお詫びしたい。そしてこの『学問の技法』という本は納得する事が多く、一読の価値はある本になるだろうというのが率直な感想である。

 

 

 

 

ファイナル・エッセイ 経済学部1  17040045 宮川美穂

 

「大学改革案の提案」

<入試で一定以上の点数を取ればどこの大学にも入れる>という改革案に、私は反対する。なぜなら、この改革案は同時に<入試で一定以上の点数を取らないとどこの大学にも入れない>ということを意味しているからだ。個人によって、与えられている学習環境が異なっているのだから、一定以上の点数を取れるということを前提にして考えるべきではない。一定以上の点数を取れない人を考慮した制度を追加するべきだ。そして、仮に一定以上の点数を取れたとしても、VIP待遇を受けたいがために、自分の能力よりも明らかにレベルの低い大学に進学する人が出てくると思われる。そのような環境の中では、学習意欲は低下し、競争心は薄れ、全体的な学力の低下が発生してしまうのではないだろうか。やはり、個人の能力に見合った大学に進学するべきである。

 そこで、@個人の能力に見合った大学に進学させるA全体的な学力の上昇を目指す

この二つの点をふまえて、大学改革案を提示したいと思う。

@)入試の点数によって大学を振り分ける

入試の点数によって順位をつけて上位1位から3000位までを東大に進学させて、3001位から6000位までを京大に進学させてといった具合にして、点数に応じた大学に進学させる。このときどんなに悪い点数を取っても、必ず大学に入れるようにする。そうすると、ほぼ同じ実力を持つ生徒たちが集まることになり、生徒の実力に見合った授業をすることが容易になり、実力と授業内容との格差による学習意欲の低下を防ぐことができ、各々が競争心を持って授業に取り組むことができる。こうして、効率よく全体的な学力の上昇を目指すことができる。

A)二次試験では成績の伸び具合を重視する

二次試験を受ける際に、それぞれの生徒の現時点での成績を考慮したノルマを与え、ノルマをどの程度達成できたか、つまりどの程度成績が伸びたかによって、3年次以降に進学する大学を決める。成績だけではなく、そこに至るまでの過程も重視するべきだと、私は考える。

B)成績の伸び具合を考慮した採用試験

企業は経験の豊富な人材を求めているが、経験の浅い人材ほど多くの可能性を秘めている。その可能性をうまく引き出すことができれば、経験の浅い人材のほうが低賃金で雇うことができるのだから、経費の削減につながる。それに、既存の概念にとらわれない考えを持つことのできる人材は企業に大きく貢献するだろう。効率的な人材育成のために、どの程度の成長が見込める人材なのか、つまり、どれくらいの可能性を秘めた人材なのか把握する必要がある。秘められた可能性を考慮したうえで、その時点で実力を発揮している人材と、可能性を秘めた人材のうち、どちらを採用すれば将来的に成功するのかを、良く考えるべきだ。

 

「中身のないプライド」

今回の講義で配布された「学問の技法」の草案の中の[中身のないプライドを捨てよう]で、学生たちがなぜ中身のないプライドにこだわるのかというととあるが、そもそも私はプライドを持っていない。

私は、プライドには二種類あって、@理想的なプライドAつまらないプライド があると考えている。平たく言うと、人を傷つけなければ@で、人を傷つければAだ。他人に敵対心をもったり、他人を蹴落としたりすることなしに純粋に自分を誇れるのだとしたら、きっとその人は理想的な人生を送れるだろう。自分の地位や名誉や財産を守るために人を傷つけるプライドがくだらないということは、言うまでもない。私は別にたいしたことはしていないので、@は持っていない。私の定義では[中身のないプライド]Aに含まれるのだが、人を傷つけてまで守りたいものを私は持っていないし、むしろ、人を守るために持っているものを捨てることのほうが多い。まだ大学生なのだから、地位も財産も名誉も持っていない。どうせたいした物は持っていないのだから、それと引き換えに人を守れるのなら、かなり得だと思う。よって私はプライドを持っていない。

だからといって、@はいいけどAはだめだというわけではない。私にとっては@よりもAのほうが魅力的なように感じる。@の理想的なプライドは、所詮理想にしかすぎない。実現させることが難しい上に、面白みがない。純粋に自分を誇れるのだとしたら、きっとその人は自分の欲しいものをすべて持っている。その時点で「人生」という名のゲームをクリアしたと言ってもいいだろう。一度クリアしたテレビゲームが面白くないのと同じで、一度クリアしてしまった「人生」は面白くない。そういった意味で、理想的なプライドを持った理想的な人生はつまらないのだ。それにひきかえ、Aは面白みがある。人を傷つけてまで守りたいものを持っているということは、周りが見えなくなるほどそのものに熱中していて、そのものが欲しくてしかたないということだ。これは[エネルギッシュな学問生活を持続させるために]の中の点Hの状態に近いと言えないだろうか。「無心の熱中」が長くて2〜3年しかもたないのと同じで、欲しくてしかたなかったものが欲しくなくなる日が来るだろう。しかし、すぐに別のものが欲しくなる。点Hの状態に近づく機会はいくらでもある。また、この「無心の熱中」を学問を続けてゆくために必要な情熱にかえることができれば、中身のないプライドを持つことは、人生においても学問においても、大変意義のあることになる。

 

「ばか知性が生じる理由」

私が今回の講義で一番興味を持ったのは[「ばか知性」に触れる]で述べられていた、色々なことである。なぜなら、どれも私が実践、もしくは体験した事ばかりだったからだ。そこで、私の体験談を交えつつ「ばか知性」について考えてみたい。

私は大学の受験勉強のときに、意識的に「ばか知性」を使っていた。私はなぜか昔から追い詰められたときに強い、悪く言うと追い詰められないと本気になれないので、とにかく意識的に自分を追い詰めてみた。大嫌いな地理の授業で一番前の真ん中の席にわざと座ってみた。最初は頭痛がひどかったのだが、我慢して何週間か授業を受けてみると、頭痛が治まっただけではなく、なぜか地理の授業が楽しくなってきた。別におもしろいことをいう先生でもなかったし、私が地理を得意になったわけでもない。なぜ楽しくなったのだろう?当時はわからなかったのだが、今ならわかる気がする。実は、地理の授業自体が楽しいのではなく、苦痛に耐えながら努力し続けることが楽しかっただけだったのだ。

人間が何かを求めて行動を起こすとき、目的を達成したときよりも、目的を達成するために行動しているときのほうが楽しいと感じることがある。しかも、ハードルが高いほど目的物の価値が上昇するようだ。簡単な例をひとつ出してみよう。山登りをするときに、何日もかけて登って頂上に着いたら嬉しいが、ヘリコプターで最初から頂上に着地したらおもしろくもなんともないだろう。当たり前だが、登っていないからだ。つまり、努力することなしに目的だけを達成すると、目的自体に価値観を見出せなくなるということだ。

私はこのことが、「ばか知性」が生じる原因に深くかかわっていると思う。

まず、自分に程よい苦痛を与える。そうすると、自分が苦痛を受けてまで達成しようとしている目的が、いつもより魅力的に感じる。魅力的に見えると、いつもより頑張ってみる。頑張れば、いつもより大きな力が出る。

先ほども述べたように、目的を達成したときよりも、目的に向かって努力しているときのほうが楽しい。だから、努力をしている途中で目的がどうでもよくなって、目的地を通り越して走り続けてしまう時がある。これが「ランナーズ・ハイ」や「スイマーズ・ハイ」の状態である。

これも私自身の体験なのだが、数学の問題集を開いてみたものの、解けなくて腹が立った。しかし辛抱強く考え続けていたら解けた。今まで解けなかった問題が次々と解けるので、楽しくてしかたなくなった。不思議とまぶたが軽くなり、結局とかなくても良い問題集にまで手を出してしまった。このとき、最初の問題集をとこうという目的は、とっくに私の頭の中から消えうせていた。

ここで、「ばか知性」の引き出し方、またそれが生じる理由を、私なりに考えてみよう。

 まずは「ばか知性」の引き出し方について。自分を焦った状態に追い込むわけだが、大きく分けて2つの追い込み方がある。@物理的制限を作り出すA精神的・能力的制限を作り出す そして、どちらの方法をとったかによって「ばか知性」が生じる理由もそれぞれ異なる。

 そこで、2つの場合に分けて説明してゆこう。

@     物理的制限を作り出す

簡単に言うと、「学問の技法」の本文で述べられていた、タイム・リミットを利用して作業をすすめていく方法だ。時間的に余裕がなくなり、自分が達成しようとしている目的にだけ目が向くようになるので、そのことにだけ集中できるようになり、いつもより効率の良い作業ができるようになる。

A     精神的・能力的制限を作り出す

つまり、自分を精神的・能力的に困難な状況に追い込むということ、それと同時に、その困難に屈せず立ち向かうということだ。困難に立ち向かうことで「忍耐美学」(=マゾヒズム的快楽)を見出すことができる。つまり、マゾヒズム的快楽を自ら作り出すことによって「ばか知性」を引き出すことができるということになる。

マゾヒズム的快楽によって「ばか知性」を引き出し、持続させることができる。それと同時に、ある種の錯覚に陥る。{自分が困難に立ち向かってまで手に入れようとしているものは、きっとすばらしいものに違いない}という錯覚だ。その錯覚にわざと陥ってみることによって(苦痛を味わったところで目的の価値に変化のないことは、考えればわかることなのだから)、目的を達成したいという欲望がよりいっそう大きなものになるだろう。自分をうまくだますことが「ばか知性」を上手に利用するコツだ。

 

「本の価値」

 本の価値を決める要因のひとつとして、昔の人の意見や主張を聞くことができるということがあげられる。昔の人が書いたものなのに、現代の人が書いたものより新鮮に感じるのは何故だろうか?それは、現代人がとらわれている常識という枠組みに制限されることなく書かれたものであるからだ。私たちが普段常識的には考えないようなことが当たり前のように述べられていたり、普段常識として私たちが当たり前のように考えていることに疑問を投げかけていたりするような本が、例として挙げられる。そして、その本の読者である私たちの心の中の常識をどれだけ壊してくれるか、また、壊したあとにどれだけ新しい知識や考えを増やしてくれるかが、その本の価値に関係する。

よって私は、自分の興味のある本よりも、興味のない本を読んだほうが、自分にとって価値のある本に出合える確立が高いと考える。なぜなら、興味のない本のほうが、自分に多くの疑問を投げかけてくれるからだ。もちろん、興味のない本のすべてに当てはまるわけではないが、最初から興味のある本を読むよりも、ずっと確立は高くなるだろう。興味のある本は、自分の頭の中に抵抗なく、すんなりと入ってしまうからだ。それにたいして興味のない本は、読みすすめていくうちにたくさんの抵抗を感じるだろう。その結果、自分の中の常識が崩れ、そこに新しいものを作り上げたなら、その本は自分にとって価値のある本なのだ。

では、どうすれば価値のある本に出合えるのか?やはり、価値のある本にも価値のない本にも、とにかくたくさんの本に出会うことである。価値のある本にだけ出会うのは、ほとんど不可能に近い話だろう。価値のない本に出会ったことによって、次に本を選ぶときにどのような点に気をつけたら価値のある本に出合えるのだろうか?と、考えるきっかけがあたえられることになる。この繰り返しによって、少しずつ価値のある本を見極める能力を高めて、価値のある本に出会う確立をあげてゆけばよいのではないだろうか。

では最後に、私なりの価値のある本の条件をいくつかあげてみようと思う。

1.読んでみて面白いと感じた本

2.読んでみてためになったと感じた本

3.自分に考えるきっかけを与えてくれた本

4.自分の生き方を変えてくれた本

そして、最も重要なのがこれらの条件だ。

5.この本のために時間を費やしてよかったと思わせる本

6.この本のためにお金を費やしてよかったと思わせる本

つまり、読書をするために人はなんらかの犠牲を払わなければならないのだが、その犠牲を払う価値のある本は、やはりそれだけの価値のある本なのではないだろうか。

 

「積ん読する」

 私が今回の講義で一番興味を持ったのは、積ん読についてである。私には本を読む時間がないので、講義の中で紹介されているさまざまな読書法を実践できずにいた。しかし、本を読む時間がなくても、本を買ったり借りたりする時間ならかろうじてある。そこで、積ん読を実践してみることにした。

 まずは本屋に行ってみた。最初に目に付いたのが、本屋の店頭に並んでいて、大きく宣伝されていた本だ。たしか、先生が最新の本にとびつくと失敗すると言っていたような気がするが読んでみたかったので、とりあえず買ってみた。次に学校の図書館にいって3冊の本を借りた。

 そして、それらの本を家の本棚に積んでみる。前に買ったけど読み終わっていない本が1冊あったので、合計で6冊の本が並ぶことになる。6冊のうち2冊がバイト(塾講師)のために読んでおきたい本(きれいな字が書ける本、英語の発音の本)、2冊が学校の勉強のために読みたい本(微分積分学の本と統計学の本)、残りの2冊が最新の本。ついでに言うと「女子プレーヤーのための初めてのラクロス」という本も欲しかったけれど、お金がないので買わなかった。この6冊の本の背表紙を眺めていて、面白いことに気がついた。<バイトと部活と勉強で忙しいけど、なんか面白そうな本を読んでみたいな〜>という私の今の気持ちを見事に反映している。

 次にそれらの本を少しずつ読みすすめてゆくのだが、ここでも気づいたことがある。色んな本に少しずつ手を出してみたものの(なんとなく私の性格が出ている気がするのだが)、やはり統計学の本や、きれいな字が書ける本や、英語の発音の本ばかりを手に取っている。つまり、勉強やバイトが優先されてしまっている。私が興味を持って買った2冊の本は、ほとんど読んでいない上に、表紙にカバーがかかったままだ。本棚に積んでいても背表紙が見えない。

 P44の6.積ん読する の文章の中に<積ん読の効果は、読書に対する自分の意思の弱さを克服することである。>という一文がある。どうやら積ん読は私に適した多読の方法のようだ。なぜなら、読書に対する自分の意思の弱さを痛感させてくれたからだ。勉強やバイトや部活の合間をぬって読書をしようと思ったのに、合間をぬって勉強とバイトのための本を読んでいる。おかしな話だ。

 そして6冊の本の横に「さっぽろの古本屋」という冊子を並べてみた。古本を読もうと思ったのに、結局冊子をもらってきただけで、しかもそれを読んでいない。これでよりいっそう読書意識が高まった。

本を読んでいないにしろ読書意識は高まったので、とりあえず成功したと言っていいだろう。積ん読は本当におすすめです。

 

「議論を盛り上げる神は必要か?」

 今回のレポートを書くにあたって、あるひとつの疑問を投げかけたい。議論を盛り上げる神は必要か?

 そもそも議論の目的は、お互いの意見をぶつけ合うことなのだから、自分以外の意見(ここでは「神」の意見)を議論の場に持ち出すのは間違っているのではないだろうか。キリストの意見を議論の場に持ち込むことができるのはキリストだけだし、太宰の意見を持ち込むことができるのは太宰だけだ。自分の意見の背後に「神(偉人)」の言葉を立てることによって議論が盛り上がるのは確かなことだろう。しかし、他人の言葉で盛り上がっても意味がない。{人のふんどしですもうをとる}とは、このようなことを言うのではないだろうか。自分の意見を持ってはじめて土俵に上がる権利が得られるのだ。

 だからと言って、「神」の存在しない盛り上がらない議論が良いと言っているのではない。自分の意見だけを使い、なおかつ盛り上がる議論をする方法を考えてみよう。

 そこで意見を「でっち上げて」みてはどうだろうか。このとき、その意見が良いか悪いかは関係ない。どんなに幼稚でつまらない意見であっても、自分の言葉で自分の意見を作ろうとすることが大切だ。良い意見が作れなかったときには、なぜその意見が良くなかったのかを良く考え、同じ過ちを繰り返さないように努力すればいい。反省を繰り返せば、いずれこつをつかむことができるだろう。同様に、良い意見が出てこなければ議論は盛り上がらないわけだが、良い意見を作り出そうと努力するうちに自然と議論は盛り上がってくるだろう。

 たまに、議論に熱中するあまりに相手に話す隙を与えずに話し続ける人がいる。それは相手に反論させないための手段の一つかもしれないが、私は反対する。議論の目的は、相手を言い負かすことではないからだ。相手に自分の意見の矛盾点を探させる時間を与え、反論させる時間を与え、なおかつ自分の意見で相手を黙らせることを目的とするべきである。自分の意見で相手を黙らせるというのは、相手が矛盾点を見つけることができないような意見をだすということだ。

 はじめから上手な議論をすることは不可能なのだが、上手な議論をしようと思うことは重要なことだ。上手な議論をすることを心がけると、上手な意見を作ろうとする。上手な意見を作ろうとすると、相手の意見の矛盾点を必死になって探そうとする。そこで、相手の意見を注意深く聞き、慎重に考察することができる。これこそが、上手な議論ができるようになるために必要不可欠なことだ。

 

「『学問の技法』への批判・追加」

経済学部1年 17040045 宮川美穂

 はじめに

『学問の技法』への批判や疑問など、わたしが感じたことのすべてを以下に記す。すべての内容を完全に把握し、解釈し、批判するのは容易なことではない。よって、まずは目

次にあわせて、順を追ってコメントしていこうと思う。

 

1.          学問する生活のスタイル

p3の[学問の「技法」にこだわる理由]の中に「学問をする場合、目的からはじめると、多くの人は途中で挫折してしまうようにできている。学問は、「型」から入ったほうが挫折しにくいようだ」(一部省略)とあるが、これはp6の[学問するための低俗な動機]の中の「とにかくいいかげんな動機から出発してみよう」「最初は外的動機からはじめて、少しずつ内的動機をもつようになれば、それでいい」という記述と矛盾している。動機という言葉は目的を伴う意識的または無意識的な欲望を指すので、動機から出発する場合には目的を伴うことになる。途中で挫折することを避けるために「型」から入ることをすすめているのに、同時に、動機から出発するという、途中で挫折する可能性のある行為をすすめるのはおかしいのではないだろうか。

 さらにp7の[学問に王道はない?]の中に「学問は、ある段階で挫折するようにできている」という記述があるので、「型」から入っても、動機から出発しても、結局は挫折することになっている。それならば、途中で挫折することは避けられないのだから、「型」から入っても結局挫折してしまうのではないだろうか。よって、学問に「型」から入ることについての記述は不必要だと考える。むしろ「目的からはじめると、多くの人は途中で挫折してしまう」という部分を強調してもいいのではないだろうか。挫折することが避けられないのなら、目的から初めて途中で挫折しても何も問題はないはずだ。

 

p8の[中身のないプライドを捨てよう]の中の「中身のないプライドなど、はやく捨てたほうが身のためになる」という考えに、私は反対する。なぜなら、中身のないプライドが必ずしも悪いものだとは限らないからだ。中身のないプライドを持っているということを言い換えると、おろかな行為をしてまで、もしくは犠牲を払ってまで守りたいものを持っているということになる。つまり、そのものを守ることに熱中している状態でp10の[エネルギッシュな学問生活を持続させるために]の中の「何かに熱中することは、人生においてとても意義深い経験であるだろう」という記述とあわせて考えると、中身のないプライドを持つことは、人生においてとても意義深い経験だということになる。p8の[独学の仕方を学ぼう]の中で記述されている、学問を続けてゆくために必要な六つの能力の一つに情熱がある。中身のないプライドの、ものを守ることに対する熱中を、学問を続けてゆくための情熱にかえることができれば、中身のないプライドを、学問を続けてゆくための原動力にかえることができる。以上の点をふまえ、中身のないプライドは学問を続けてゆくための原動力になりうるので、中身のないプライドのすべてを捨てる必要はないと考える。

 

2.          知性の体力をつける

p17の[「ばか知性」に触れる]の中で、自分の中の「ばか知性」というものを引き出すことが大切だと記述してあるのだから、「ばか知性」の引き出し方や、生じる理由についてもう少し具体的な記述を付け加えると面白くなると思う。そこで、私なりの「ばか知性」の引き出し方、またそれが生じる理由を以下に示す。

 まずは「ばか知性」の引き出し方について。自分を焦った状態に追い込むわけだが、大きく分けて2つの追い込み方がある。@物理的制限を作り出すA精神的・能力的制限を作り出す そして、どちらの方法をとったかによって「ばか知性」が生じる理由もそれぞれ異なる。

 そこで、2つの場合に分けて説明してゆこう。

 

B     物理的制限を作り出す

簡単に言うと、「学問の技法」の本文で述べられていた、タイム・リミットを利用して作業をすすめていく方法だ。時間的に余裕がなくなり、自分が達成しようとしている目的にだけ目が向くようになるので、そのことにだけ集中できるようになり、いつもより効率の良い作業ができるようになる。

 

C     精神的・能力的制限を作り出す

つまり、自分を精神的・能力的に困難な状況に追い込むということ、それと同時に、その困難に屈せず立ち向かうということだ。困難に立ち向かうことで「忍耐美学」(=マゾヒズム的快楽)を見出すことができる。これは、p9の[学問は楽しまなくても良い/快楽原則でいこう]に記述されている通りだ。つまり、マゾヒズム的快楽を自ら作り出すことによって「ばか知性」を引き出すことができる。

マゾヒズム的快楽によって「ばか知性」を引き出し、持続させることができる。それと同時に、ある種の錯覚に陥る。{自分が困難に立ち向かってまで手に入れようとしているものは、きっとすばらしいものに違いない}という錯覚だ。その錯覚にわざと陥ってみることによって(苦痛を味わったところで目的の価値に変化のないことは、考えればわかることなのだから)、目的を達成したいという欲望がよりいっそう大きなものになるだろう。自分をうまくだますことが「ばか知性」を上手に利用するコツだ。

 

p18の[若き日にバラをつかめ]の中に、これまでの人生の中で一番苦労したこととして「受験勉強」をあげることに対しての批判があったが、この批判は適切ではない。なぜなら、受験勉強を本人の意思とは無関係に与えられた試練、いわば義務のようなものとしてとらえた上での批判だからだ。受験勉強を自らに試練として課すことを意識的に決定した者に対して、この説は成り立たない。大学生活というバラには受験勉強という棘があり、それを素手で摘むことを、意義のないこととして批判する権利は誰にもないはずだ。「学問の技法」には受験勉強を非難する箇所がいくつかあるように感じられるが、一概に受験勉強を非難することには疑問を感じる。

 

3.          知的生活人になるために

ここから先に記述することは、2.知性の体力をつける の内容も含まれている部分があるが、ご了承願いたい。p17[脳と心に緊張感を]・p18[若き日にバラをつめ]・p19[世紀末ドイツの若者たちから生き方を学ぼう]・p21[自己否定度を測ってみよう]・p27[大衆批判について知る] この5つを並べて記述するべきだと思う。なぜなら[脳と心に緊張感を][若き日にバラをつめ]で、<気概>というキーワードを使っていて、気概を持って難題に取り組むことの意義を説明しているのだから、そのあとに同じく<気概>について記述している[世紀末ドイツの若者たちから生き方を学ぼう]を持ってきたほうが、p20の「およそ若いときには、既存の文化に対抗して、小さくても何か新しいことを始める、という気概が必要だ。」という、気概を持って難題に取り組むべきだということを言い換えた文が生きてくるからだ。同様に、p21の「若さとは、今の自分に安住しないこと」は、自己否定度を高めることによって、気概を持ち、難題に取り組むことをすすめる文なのだから、p21の[自己否定度を測ってみよう]を次にもってくるべきだ。そのあとに、自己否定と同じようなニュアンスを持った大衆批判について書かれている、p27の[大衆批判について知る]をもってくれば、自然な流れになるのではないだろうか。

 

p26の[知性と感性の二分法を考える]の中の「知性と感性の二分法を信じる人々は、たとえ収入と地位が高くなるとしても、文化的に最低限の生活を送ることにならないのか。それは魅力のない人間なのではないか」という記述には、問題がある。挑発的な文が文章にメリハリを与えるのは事実だが、これはあまりにも挑発的すぎて、読者に不快感を与える。この文を削除、もしくは修正する必要がある。

 

p26の[知性と感性の二分法を考える]の内容の全体を通して、批判したい。文化や芸術を感性の例として記述しているが、文化や芸術は精神的に自由な活動であるので、感性も精神的に自由でなくてはいけない。感性を養うために入試試験に芸術一般に関する科目を追加したら、それは精神の束縛に他ならず、入試試験に芸術一般に関する科目を追加することによって、感性を養うことはできない。よって「感性を養うために、受験生には芸術一般に関する入試試験を課してはどうだろうか」という案に、反対する。そして音楽や美術が大学入試に出題されない理由として、多くの人が、感性的なものを単なる気晴らしにすぎないと考えてしまう傾向にあることを述べているが、その理由は別のところにあるのではないだろうか。精神的に自由な活動であるはずの音楽や美術を大学入試に出題してしまっては、それは音楽学と美術学になってしまい、音楽と美術ではなくなる。つまり、音楽と美術に精神的束縛がともなうと、それはもはや音楽と美術ではない。私は、音楽や美術が大学入試に出題されない理由は、音楽や美術を大学入試に出題することが不可能だからだと考える。

 

5.          読書術を工夫する

p40の[本を読んで不良になろう]の中に「先生に気に入られようとするいわゆる「よい子」は、高校を卒業すると、あまり読書をしなくなる。もはや先生が読書をすすめなくなるからである。」という記述があるが、先生が読書をすすめなくなっただけで、読書をするなと言っているわけではない。だから、先生が読書をすすめなくなっても、読書を続ける「よい子」はいるはずだ。よって「大学生以降の読書はむしろ、不良にこそふさわしい。人の知らないことを誰にも勧められずにたくさん読んでいるというのは、不良の証しだ。」という考え方は、安直ではないだろうか。

 

6.          議論の作法を身につける

p55の[意見をでっち上げる]の中で記述されている、意見をでっち上げる方法もいいのだが、やはり自分が本当に思っていることを意見にできることにこしたことはない。そこで、意見をでっち上げるほかに、意見を作り出す方法を提案したい。それは、懐疑派になることだ。つまり、相手の意見を最初から疑ってかかり、「相手の意見を批判してやろう」と構え、相手の意見の穴を見つけることに重点をおいて相手の意見を聞くということだ。この方法なら、相手の意見を客観的に(情に流されずに)聞くことができるし、なによりも自分が本当に思っていることを意見にできる。

 

p56の[議論をもりあげる神様たち]の中で、もう一度p24の[人生のモデルを見つけよう]内容を振り返ってみるとよいのではないだろうか。どちらも、自分のお気に入りの偉人を見つけることをすすめているのだから、一番いいのはこの2つの文章を並べて記述することだ。しかし「学問の技法」全体の構成を考えると不可能なので、内容を振り返る程度にとどめるのが無難だろう。

 

とは言ったものの、私は人生のモデルを見つけることには賛成するが、神の意見を使って議論をもりあげることには反対だ。議論の本来の目的は、お互いの意見をぶつけ合うことなのだから、自分以外の意見(偉人の意見)を議論の場に持ち出すのは間違っている。他人の言葉で盛り上がっても意味がない。自分の意見を持たないものには、議論する権利はないのだ。どんなに幼稚でつまらない意見であっても、自分の言葉で自分の意見を作ろうとすることが大切だ。良い意見が作れなかったときには、なぜその意見が良くなかったのかをよく考え、同じ過ちを繰り返さないように努力すればいい。反省を繰り返せば、いずれコツをつかむことができるだろう。良い意見が出てこなければ議論は盛り上がらないわけだが、良い意見を作り出そうと努力するうちに自然と議論は盛りあがって来るだろう。はじめから上手な議論をすることは不可能なのだが、上手な議論をしようと思うことは重要なことだ。上手な議論をすることを心がけると、上手な意見を作ろうとする。上手な意見を作ろうとすると、相手の意見の穴を必死になって探そうとする。そこで、相手の意見を注意深く聞き、慎重に考察することができる。これこそが、上手な議論ができるようになるために必要不可欠なことだ。

 

7.問いを発する技法

 p63の[「よい子」をやめよう]は、p40の[本を読んで不良になろう]と同じく、「よい子」を批判する内容なので、p63でp40の内容をもう一度振り返ってみると、説得力が増すのではないだろうか。

 

 しかし、ここであえてp40の内容に対しての批判をもう一度提示したい。<先生が読書をすすめなくなっただけで、読書をするなと言っているわけではない。だから、先生が読書をすすめなくなっても、読書を続ける「よい子」はいるはずだ。よって「大学生以降の読書はむしろ、不良にこそふさわしい。人の知らないことを誰にも勧められずにたくさん読んでいるというのは、不良の証しだ。」という考え方は、安直ではないだろうか。>よって、「よい子」をやめることと、高等な不良文化に足を踏み入れることとは、必ずしも結びつかないのではないだろうか。

 

p64の[粘り強い懐疑から出発する]は、p55の[意見をでっち上げる]に対しての私のコメントと似ているので、この案には賛成だ。

 

おわりに

全体を通して感じたことは、構成についてである。せっかく同じことを勧めている文章があるのだから、それらを並べて提示したほうが良いと思う。そのほうが説得力が増すだろう。バラバラにしてしまうのはもったいない。並べて提示することが不可能なら「p○○で述べたように」と、内容をもう一度振り返るべきだ。

次に、これは個人的な意見かもしれないが、受験勉強とよい子に対する批判が目に付く。これらのすべてを一概に批判することには、やはり疑問を覚える。例外をふまえたうえで批判するべきではないだろうか。

 

『ファイナル・レポート』 学生番号3804002 明石裕行

 今までに提出してきた、小レポート・古本屋ジャーナル・読書リストなどをまとめ、もう一度、この講義を振り返っていこうと思う。

 

《第1回目レポート:大学改革案に対して》

@       第1回目の授業を受けての感想

A       僕の考える大学改革の意義

B       大学改革案について

まず、@の事について述べたいと思います。僕は、この授業を受けて、かなり感動した。大学に入る前から、北大は全学教育に力を入れていると聞いていたが、実際に入学して授業を受けてみると、裏切られる部分が多々あった。例えば、『収容上の関係で』という理由で受講者を抽選で決めたり、大講堂の授業は入るだけ入れて強引に授業を行ったりなど、本当に授業を聞きたい・学びたいと考える人を無視しているかのような感じに思えた。また、授業内容も先生が一方的に自分の意見を述べるだけで、聞いていても退屈な授業が多い。ところが、『学問の技法』という授業は全く違った。確かに抽選というもので、受講が決まったのだが、講義の内容は僕が求めているものと一致した。先生が、ある事について述べた後、僕達からの批評や質問に丁寧に答えてくれるので、先生と学生が同じ授業区間を一緒に共有している感じが、物凄く感じ取れた。

 続いて、Aの事について述べたいと思います。『どうして大学改革を行う必要があるのか。』と言う事について考える前に、『大学とは何か、大学に行くという事はどういう事か』について述べていきたいと思います。小・中・高とは違い、大学は《自由》がとても認められている学習環境だと思う。大学での自由な環境は、社会に出ていく前に自分をもう一度見つめ直す機会を与えてくれる。と同時に、いろいろな教養科目によって幅広い知識を身につけ、3・4年になると専門科目によって自分の将来につながっていく実用的な知識を得られると思っている。ところが、大学の講義の内容はどうか。教養科目といっても、一部の先生が、単に自分の考えを述べるだけであって、学生自身が考え・行動するという事が軽視されているように思う。大学に行く目的の一つに『自分を見つめ直す』という事があり、その手段として教養科目があると上に書いたが、現状の教養科目では、とても目的を満たすための手段とはなり得ないと思う。大学生の学力低下や、大学が遊ぶ所と化してしまっている現状は、大学の教育内容に大きな問題があると思う。大学生の学力は決して、低下していないと僕は考える。昔より、学習環境は良くなり(例えば、パソコンによる情報収集が可能になった)、最先端技術も学べる。ところが、大学生の学力は低下していると言われる。それは、大学生が物事について深く考えなくなった事が、原因ではないだろうか。それは、考える機会を与えてくれるはずの大学教育の質が落ちていることを意味するのではないだろうか。つまり、大学改革をする意義というものは、もう一度大学のあるべき姿を見つめ直すことだと思う。

最後にBの事について、少しだけ述べたいと思います。大学改革の意義は上記で述べたが、その具体的な事について書きたいと思います。そこで、僕が一番行ったら良いと思ったことは、授業の中で紹介されていた【多機能教育空間】の実行です。実社会の人々の話を聞いたり、カリスマ予備校講師の授業を受けてみたり、ボランティア活動を取り入れたり等、学部1・2年生の間にできるだけ大学教員以外の話を聞いて、様々な活動を行う事が重要ではないかと思う。そもそも、大学の教員は、『授業をする+自分の研究をする』という立場である。だから、自分の研究に専念したいがために、授業は手を抜くという教員も存在する。特に、教養の講義を担当する教員は、こう考えても不思議ではない。そこで、教養科目を担当するのは、外部の人間にしたらどうか、というのである。すると、大学教員は面倒な教養科目を担当しなくて済むし、学生側は様々な実社会の人の話を聞けたり、ボランティア活動によって、人生における大切なことを学べるなど、利点が多い。大学に入ってしばらくは、《・・・学基礎》や《・・・学概論》などを学ぶより、多くの人からたくさんの事を聞き、いろいろな活動から貴重な経験を積むことで、3・4年次に進学した時、本当に自分の学びたいことが見つかるのではないだろうか。自分のやりたい事を模索するのが大学初期教育であり、そのやりたい事に打ち込むのが大学後期教育であり、その道のプロフェッショナルを養成するのが大学院であると思う。このように考えてみると、いかに大学初期教育が重要であるかということが、良くわかる。大学改革の第一歩は、大学初期教育改革に他ならない。

 

《第2回目レポート:学問とは何か》

@     勉強と学問の関係

A     勉強と記憶力、そして学問

まず、@の事について述べていこうと思います。授業の中で『勉強』は知識を詰め込むための機械的な作業であり、『学問』は新しい問いを発することと紹介されていたが、これは的確に勉強と学問の違いを表しており、非常に納得できるものでした。ところが、勉強と学問とは正反対のものであるとも紹介されていた。僕は、この点について納得できない。というのも、勉強は学問をするための手段ではないかと考えているからだ。確かに、学問は一人一人の「思索力」に重点をおいているが、「思索」するためには、その素となる物が必要となるはずだ。それが、勉強によって得られる知識ではないだろうか。つまり、学問の一部として勉強が存在するので、それらは互いに相反するものとして捉えるのは、誤った考え方ではないだろうか。

少し話を変えて、Aの事について考えていこうと思う。早速ではあるが、「勉強ができる=記憶力が良い」という考え方は正しのであろうか。僕の事に関して言うと、僕自身は、かなり記憶力が悪い。英単語を覚えることも苦手だし、数学の公式や生物の用語も覚えられない。僕が「記憶する」と言う事に嫌気を覚え始めたのは、「教科書や辞書に書かれていることを、どうして覚える必要があるのか。忘れたならば、その都度確認したらいいではないのか。」という考えを持ち始めてからだ。この考えは、高校生になってから強く感じるようになった。教科書や辞書に書かれていることを理解できないことは問題であると思うが、書かれている内容を覚えることに如何程の価値があるだろうか。現行の入試制度を見てみると、記憶力の良い人から順に偏差値の高い大学に振り分けられているような気がしてならない。果たして、この入試制度は最善のものであろうか。仮に、大学が学問をする所であるとするならば、現行の入試制度も納得がいく。つまり、学問をするためには、その素となる知識が必要である。学問の盛んな大学(平たく言うと一流大学と呼ばれる大学?)が、多くの知識を持つ学生(=記憶力の良い学生?)を集めることに何の疑問もない。そこで、また問題が浮かび上がる。それは、今現在、日本の大学の中で学問が盛んであるという大学が存在するのであろうか、と言う事である。多くの大学院は、学問が盛んである。しかし、大学はどうであろうか。学生の多くは如何に楽して単位を取るか、と言う事には専念しても、学問をしようという意識はかなり低いように思われる。学問をしようという意識を低下させているのは、他ならぬ現在の大学の教育システムであると思う。学問や勉強の事について考えてきたが、行き着く先は、やはり大学の在り方・教育システムと言う事であった。「勉強ができる=記憶力が良い」という考えをどのように感じているのか、班員のみんなと考えていきたいです。

最後に、第2回目の授業を受けての感想を少し書こうと思う。今回の授業では、学問や勉強の本質に少しでも触れることができ、大変良かったです。というのも、学問と勉強の違いを改めて確認したことで、「今後どのように大学の授業を受けていったら良いか」と言う事を考える機会ができたからです。また、学問と勉強とは実に微妙な関係である事も感じました。それ故、大学での教育システムの重要性を改めて認識すると共に、その難しさも感じました。

 

《第3回目レポート:知について考える》

@     学知と実践知の関係を探る

A     知性と感性の二分法に対しての意見

B     大衆批判から考える−エリートと大衆の違いとは− 

まず、@の事について書いていく。僕は、『実践知』から誕生するのが『学知』であると思う。つまり、日常の経験でわかっている事(=実践知)を体系化したものが『学知』ではないだろうか、と考える。また、『学知』は、『実践知』とは違い、特定の分野に精通するのではなく、多用な分野で応用の効く知識であると思う。言い換えると、多用な分野の『実践知』を一つにまとめようとしているのが、『学知』であると言える。授業な中で取り上げられていたルソーの教育論「エミール」を例に、更に考えていこうと思う。十二歳の百姓の息子は、テコの【使い方】には精通しているが、その原理を知らない。一方、力学の専門家はテコの【原理】に精通しているが、その使い方を知らない。

ここで、一つ重要な問題が浮上する。それは、【実践】から【普遍】を導くのか、それとも【普遍】から【実践】を導くのか、と言う事だ。これは、大変難しい問題である。そこで、少し話を元に戻して、「エミール」の例から正解を導いていこうと思う。さて、地球上に先に登場したのは『テコを使う人間』と『力学の専門家』のどちらだったであろうか。

おそらく、『テコを使う人間』が先に出てきているはずだ。その後、その原理を知ろうと『力学の専門家』が出てきたのではないだろうか。とするならば、人間は【実践】から【原理】を導いてきたのではないか。

新たな問題点として、大学で『学知』を学ぶ意義は何か、という問題を挙げてみる。僕は、『実践知』なら世界中の人が追求できると思う。なぜならば、『実践知』は日常生活に根ざしているものだからだ。一方の『学知』を学ぶという事は、『実践知』から見えてこなかった事を発見したり、新たな分野に応用したりと、日常生活から離れてしまう一面が出てきてしまう。しかし、『学知』を発展させないと、人類の進化も、この先見込めなくなると思う。大学で『学知』を学ぶ意義、それは、後の人間社会発展のためではないだろうか。

続いてAの事に関して述べていこうと思う。ここで問題になっている事を突き詰めると、『感性』をどのように扱うか、と言う事に突き当たると思う。プリントの中に、「大学入試に音楽や美術の試験を導入すべき」という意見が書かれていたが、これに対しては大反対だ。反対する理由には二つある。一つ目は、人の感性を計る尺度が存在しない事だ。知性を計るためには、今日のセンター試験のようなマーク型試験をもって計る事はできるが、感性には適格な方法がない。先生は、感性を調べるための試験として、「音楽史」や「美術史」を例に挙げていたが、これらは歴史の問題ではないか。つまり覚えている者のみが分かるという、今日の歴史の問題と何だ変わりない。二つ目の反対理由として、仮に音楽や美術の試験が現実のものとなったら、それに対応した学習塾が出てきてしまう。受験用のテクニックを『感性』の分野まで認めてしまって良いのだろうか。

確かに、今日の入試が『知性』重視である事は間違いない。だからといって、安易に『感性』までも入試に加えてしまう事は、問題ではないだろうか。では、どのようにしたら良いのだろう。一つの解決策として、国語の試験の代わりに、受験生に小説を書かせるという案を挙げる。小説は、その人の持っている感性を知る手段として通じるほかに、段落構成や語句の使い方など、国語の基礎知識をも判断できるのではないか。

とは言うものの、これでも完全に『感性』を計る事はできない。やはり『感性』は「個人的事柄」としてしか、考える事はできないのだろうか。

最後にBの事について、少し触れておこうと思う。今回の授業の中で紹介されていた大衆批判に関する表には、大変興味を持った。あの表から、僕は『大衆』と『大衆を抜け出た人(これ以降エリートと呼ぶ事にする)』の違いは、【カネの差】であると直感的に感じた。つまり、大衆は今日を生きるために【カネ】を稼ぎ、時間を費やすのに対して、エリートは【カネ】には何だ不自由ではないので、時間が余り、より高貴な思考ができるのではないかと言うのである。ここで、問題にしておきたい事が一つある。それは、大衆を批判する事に何の価値があるのか、と言う事だ。大衆でも良いではないか、と僕は思う。大衆は【カネ】がないから、せめて不自由のない生活を望む。プリントによると、大衆は、エリートが考えているような「生きるとは、絶え間ない緊張であり、不断の修練である」などと考えずに「生きるとは、幸せに身をおくことである」と考えるものらしいが、それもそのはずだ。【カネ】が無いのに不断の修練などしていたら、破産してしまう。大衆は、好きで大衆をやっているのではない。みんなエリートになりたいのだ。そのような大衆を批判して、何になるのか。この国を支えているのは、一部のエリートではなく、大勢の大衆だ。大衆と、エリートが出てくる事に問題は無いと思うし、それが、競争型社会の宿命でもある。大衆とエリートが、互いの権利を認め合ってこそ、国は成長するのではないだろうか。

 

《第4回目レポート:読書の目的》

@:中,高,大学生の読書量が著しく少ないのは何故か。

A:『読書』の目的

@:前回の授業プリントの中に、気になる項目があった。それは、平均的な読書量が、小学生、約6冊、中学生、約2冊、高校生、約1.3冊というデータだ。おそらく大学生の読書量は、高校生程度か、それ以下の量であろう。どうして、高等な教育を受けるにつれて、読書量が減ってしまうのであろうか。

おそらく、その最大の原因は、『本の内容が、高等な教育を受ければ受けるほど、高度なものとなり、自分の知識の【無さ】に対する恥じらいを隠そうとする』からであろう。つまり、新書にしろ、文庫本にしろ、書かれてある内容に、自分の知識が追いつかない事で苛立ち、ついには読書をしなくなるのではないだろうか、と考える。

よく耳にする読書嫌いの理由に、読書をする事に意義を感じられない、読書をするような時間が無い等がある。(僕も、高校生の時は、読書嫌いで、その理由にこのようなものを挙げていました。)しかし、読書嫌いの本当の理由はそのようなものではないと思う。そのような理由は、正直に自分の知識の無さを認めたくないために作り出したものであると思う。実際の所、読書は嫌いでもマンが好きの人は、かなりたくさんいると思う。読書では、知識の無さを露呈されてしまうが、マンガでは、そのような事が無い。言葉で表現されると同時に、画も使われているので、知識量が少なくとも、すんなり読み進めることができる。

ここまでは、読書嫌いの理由について考えてきた。次に、「では、読書にどのような目的(価値)を持つことが望ましいのか。」と言う事を考えてみる。つまり、読書に対する姿勢について考えていこうと言うのである。

A:読書の目的とは何であろうか。知識量(教養)を増やすため?それとも趣味?

僕は、読書に目的は不要であると思う。あえて言うならば、読書の目的は「何となく」といった所であろうか。つまり、身構えて読書をする必要は無いと思うのである。読書に対して余計な期待(この本から何かを得ようという意気込み等)を持つから、逆に自分の知識の無さに気づいてしまい、読書嫌いになるという最悪の展開に陥ってしまう。読んでいる本の内容が、よくわからなくても全く問題ない。読書に余計な期待さえしなければ、内容がわからなくても構わないではないか。分からないことが出てきても、気にせず別の本を読んでみる。いろんな本を読んでいるうちに、分からなかったことが分かるようになるかもしれない。もちろん分からないままでも良い。なにせ、読書の目的は知識を得ることではないのだから。

(ここで、一つ付け加えておく。それは読書から知識を得ようとしている人がいけない、と僕は考えていないと言う事だ。読書から知識を得ようとする人は、立派であるし、読書の目的をそのような高いところに置くことは、大変素晴らしいことだと思う。ただ、僕のような読書嫌いが、初めからそのような目的を持つことに対して、僕は疑問を投げかけているだけだ。)

読書をもっと気軽な活動と捉えることが、読書嫌いを治す方法ではないだろうか。つまり、読書=高貴な娯楽活動と見なそうと言うのである。ここで、「高貴な」という言葉を使った理由は、読書を即実学として見るのではなく、永遠と楽しめる(=心に余裕を持って取り組める)活動と見なそうというからだ。

読書のことについて、真剣に考えたのは今回が初めてのことであり、大変貴重な事を考える事ができた。読書に対する自分の考えを持てたことは、大きな成果だと感じている。

 

《第5回目レポート:読書の仕方》

@:「内容を理解しない=本を読む価値はない」という考えは正しいのか。

A:読書した内容を『寝かせる』意義

B:多くの本を読む意義

@:「読書=実学」という考え方は、かなり一般的なものであるし、この考え方が間違っているとは思わない。しかし、あまりに「読書=実学」を意識しすぎることで、本を読み終えた時に何も得られなかった場合、読書に対して失望し、ついには読書嫌いになってしまうという可能性もあるのではないだろうか。つまり、「読書=即実学」という考え方は、読書が成功した場合(=本の内容が理解できた時)には大きな自信になるが、読書が失敗に終わる時(=本の内容を理解できなかった時)には、読書に対して不信感を抱いてしまうかもしれない、という大きなリスクを背負っているように思う。

A:せっかく読書したのに、内容が理解できなければ、誰しも多少の苛立ちは感じるであろう。その苛立ちを感じる原因は、読書に対する過度の期待(=即実学的な考え方)によると思う。

そこで、読書した内容を『寝かせる』・『発酵させる』という考え方を持ったらどうか、と僕は思う。つまり、読書した内容は、すぐに自分の知識となるのではなく、ある程度の時間が経過してこそ、自分のものになるという考え方を、持ったらどうかと思うのである。この考え方は、高校の教科書に載っていた『思考の整理学』(外山滋比古著)によるものだ。

時間が経つと、その時間の分だけ、人は何かしらの知識なり感情等を得る。時間の経過=人の進化(発育・発達)と考えると、内容がわからなかった本でも、時間が経てばわかるようになるのは、ごく自然なことである。その自然な流れに反して、本からすぐに知識を得ようとしている態度こそ、おかしなものではないだろうか。

B:読書した内容が、理解できない時は上でも書いたように、『発酵させる』のが一番であるが、より良い『発酵』を行うための条件として、周りの環境を整えることは、非常に大切なことであろう。その環境に相当するものが、『読書量』であると思う。一冊の本を読んだだけで、その内容がわかれば苦労しない。同じような事が書かれている本を何冊も読むことで、周りの環境は、ある方向性を持って整備されていき、より良い『発酵』を促してくれると考える。

読書の仕方としては、多読のほうが望ましいであろう。と言うのも、精読では時間がかかりすぎる上に、ある考え方に固着してしまう可能性もあるからだ。

*本来なら、「内容を理解して、大量に読む」ことが望ましいのであろうが、なかなか上手くはいかない。むしろ、上手くいってしまうと読書の価値はなくなってしまうだろう。言い換えると、「理解できないようの部分があるからこそ、読書には価値がある。」のである。内容が理解できない時に挫折して、読書を止めてしまうのではなく、今回のレポートで書いた『寝かせる』と言うことを大切にして、今後も読書活動を続けていこうと改めて思った。

 

《第6回目レポート:本田宗一郎語録から考える》

@:日本人はパーティーを生かしていない

A:議論をする時の重要な作法

@:プリントの中に、「日本には異質な他者達が集うパーティーのような社交的空間がまだ少ない」という記述があったが、確かにその通りである。友達と、またはクラス単位で「飲み会」を行うことは、しばしばあったとしても、欧米型のようなパーティーを開くことは稀だ。

 ところで、パーティーと飲み会の違いは何であろうか。本田宗一郎曰く、「パーティーとは、酒や料理を肴にしながら、話を弾ませ、会話を楽しむような集まりのことであり、日本風の飲めや歌えで大騒ぎする宴会のことを言うのではない。」との事だ。つまり、パーティーと飲み会(宴会)とを、完全に別のものとして捉える必要があるのではないか、と言うのである。パーティーは会話を主眼に置いた集まりであるのに対して、飲み会(宴会)は飲食やストレスの発散等に主眼を置いた(=会話を目的とするのではない)集まりのことを言うのであろう。

 さて、ここで本田語録を一つ紹介しようと思う。

 『パーティーの時、本音が出てトラブルが解消されるんだよ。ところが、日本人はパーティーを生かしていない』

 日本人が、パーティーを生かしきれていない理由に、本田宗一郎は「おそらく、日本人は肩書きや地位で人間を判断する傾向が強いから。」という理由を挙げている。パーティーは、上でも触れたように、「異質な他者が集う区間」という言葉からも判断ができるように、自分と考えの違う人間がいるからこそ、価値のある集いである。ところが、日本社会では異質な他者に対しては、敵対心を抱き、相手を牽制するような態度を取ってしまう。おそらく、日本型競争社会・日本型共同体意識の中においては、異質な他者との付き合いによって、自分の地位(境遇)が揺らいでしまうのではないか、と考えている人が多いからであろう。

 つまり、学生時代に欧米風のパーティーに参加したことがなく社会に出て行くことにより、異質な他者との交流の大切さを知らないで、その人の肩書き・地位によって、自分との関係を推定してしまうということしかできない『日本らしい』発想が出てくるのであろう。

 今一度、【異質な他者】との【会話】を主眼に置いたパーティーの重要性を認識することの大切さを確認する必要があると思う。

A:2つ目の話題として、議論をする時に最も重要な作法とは何か、について少しだけ触れてみたいと思う。僕は、議論の目的は、『自己形成』に他ならないと思う。自分と考えの違う人と話し合うことで、自分に多くの考え方を身に付けること、そして多くの考え方から更に高度な価値観を生み出していくことに、議論の価値があり、それが議論の目的であるとも思っている。

 その目的を達成するために重要なことが、相手を自分と対等な関係とみなす、あるいは相手を自分の師として認めるような態度をもって、議論に望むべきだということだ。議論は、自分の意見をもって相手を打ち負かすのではなく、その議論を通して互いの成長を期待するようなことだと思う。初めから、相手を打ち負かすという意識を持っていては、それは議論ではなく、「説得」になってしまう。議論に対する目的意識をしっかり持つことが、議論を行う上での、最低限の作法であると思う。

 

《学問の技法への批判と意見》

《はじめに》

 私は、この草稿を読み、これから大学生活を営んでいく上での確かな指針を得た。特に、読書論の話は、今までまったく読書をしてこなかった私には、貴重なものであり、大いに参考になった。これから、私の気づいた点について列挙していくが、一つでも先生の目に留まり、活用されれば幸いであると思う。なお、時間の都合で、〈7.問いを発する技法〉までの内容について書いていく。

 

《学問とは何か:P2,3

 橋本氏は、「大学=学問をするところ」という考えを持っているようだが、この考えは、現在では理想論でしかなく現実味が全くない。

 北大を始め、全国の大学で「大学院重点化」が推し進められている。文系の大学院進学率は、よく分からないが、3割程度であろうか。それに対して、理系では約7割の人が大学院に進学している。つまり、文系と理系では、大学の教育に対して求めている内容が全く異なる。以下に、その内容を示す。

文系:自ら問いを発し、その問いを解決する能力を身につけることで、就職しても職場で上手く仕事がこなせるような能力を身に付けさせる教育機関として、大学は存在する。

理系:大学院で研究をする際に、支障が出ないように、専門の初期教育を行う機関こそが大学である。

私が思うに、理系の学生を4年間で卒業させることなど、もともと不可能ではないだろうか。4年間で卒業と言ったが、実際の専門教育は2年ほどしか行われないのである。2年間で、学問の基礎から最先端の技術・研究まで習得させることは、どう考えても不可能である。小・中・高と12年間学んできても、大学での授業はつらい。そんな状態の学生が、2年間で何が出来ると言えようか。

 「大学=学問をする所」という考え方は、文系の学生には通ったとしても、理系の学生にとっては全く意味のない考えである。その証拠として、「大学院重点化」を挙げるが、橋本氏は、この「大学院重点化」の動向をどう捉えているのだろうか。

 理系と文系とでは、大学の役割が違うことを挙げた上で、「学問とは何か」ということについて述べるべきだと思う。

 

《脳と心に緊張感を:P17

 ここでは、「バカ顔の類型学」について考えていこうと思う。参考に、「バカ」の意味を広辞苑で引いてみると、次の4つの意味に大別できた。

@:愚かなこと

A:取るに足りないつまらないこと、無益なこと

B:役に立たないこと

C:「度はずれて」の意

 さて、ここでバカ顔を以下の3グループに分けてみる。

T『愚かなバカ顔』:一般的にイメージされる「バカ顔」のこと

U『大衆的バカ顔』:日常生活に満足し、向上意欲を持たなくなった時の顔の表情

V『情熱的バカ顔』:何か1つの事に熱中している時の顔の表情

 ここで注目したいのが、U型・V型のバカ顔である。この2つのバカ顔に関して、これから考察していこうと思う。

 人は、向上意欲をなくした瞬間、顔の表情・日常生活における緊張感がなくなるように思う。例えば、現在の大学生の多くは、この状態に陥っていると言えよう。つまり、苦しい受験勉強に耐え、やっと大学に入学した安堵感から、勉強したい・学びたいと言う気持ちにはなれず、そして学生生活をただ何となく過ごしてしまう。これが『大衆的バカ顔』なのだ。

 逆の場合も考えられる。大学は、何か1つの事に打ち込むのには最適な環境である。それが、勉強であれ部活・サークルであれバイトであっても良い。何か1つの事に打ち込んでいる人の姿は、かっこ良い。

 人は、すぐに『大衆的バカ顔』に陥りやすい。しかし、理想は『情熱的バカ顔』であろう。学習、仕事、遊び・・・何でも良いから本当に打ち込める事を見つけ、『情熱的バカ顔』を得られるように努力したいものだ。

 

《大衆批判について知る:P27

 大衆を抜け出た人(=エリート)と大衆の違いは、「物質的豊かさの違い」・「財産の有無」であると思う。エリートが、大衆と違い、高貴な考えや活動が行えるのは、「カネ」という保険がしっかりしているからであろう。エリートが、上部構造を求めるのに対して、大衆は下部構造の方にしか手が届かない。

 しかし、エリートと大衆を単純に二分化できるのだろうか。私はできないと思う。その根拠は、これから示していく。まず、私が考えた「エリート・大衆の分類」の仕方を示す。

T:超エリート→上部構造を純粋に追い求める

U:エリート →上部構造を求めているが、危険を冒すことはしない(一定範囲で求める)

V:超大衆  →物質的豊かさは無いが、上部構造を求める

W:大衆   →下部構造、物質的豊かさを純粋に求める

     ここで、自分がどのタイプに属するかを試すテストを紹介する。(私が考えたものなので、必ず正しいという確信はありません。一応の目安にしてください。)

質問 :「もし、3億円を無償で提供されたら、何に使いますか?」

選択肢:@貯金 A半分は貯金し、もう半分で自分のやりたいこと(世界旅行等)をする

    B貯金を一切せずに、自分のやりたいこと、自分の夢や教養のために使う

結果 :@:大衆 A:エリート B:超大衆or超エリート

Bと答えた場合は、自分が物質的に豊かな状態にあるかどうかを判断して、超エリートか超大衆かを判断する。

 つまり、私が言いたかったことは、大衆を抜け出た人(=エリート)と大衆の違いは、『物質的豊かさ+精神的豊かさ』によって決まるということだ。P27の表を改めたものを以下に示す。

超エリート

エリート

超大衆

大衆

自分自身に高度な要求を課し、進んで困難と義務を負う人

自分自身に高度な要求を課すが、安全・保証がないと実行に移さない人

自分を「普通の人」とは感じず、いろいろな人の意見に耳を傾ける

自分を「普通の人」と感じ、同世代の人達と同じであることに喜びを見出す

凡俗なものに関心を持たず、高貴なものを肯定し、高貴なものを目指している

凡俗なものにも興味を示しつつ、高貴なものを憧れ、求めていく

凡俗であることを否定し、高貴なものを肯定する。そして高貴なものを求める

凡俗であることを肯定。凡俗であることの権利を主張し、高貴なものを蔑視する

政治的・文化的卓越性を求める

経済的豊かさを第一とした上で、政治的・文化的なものを求める

経済的安定を求めつつも、実際は政治的・文化的卓越性に憧れを抱いている

経済的豊かさと安定を求める

自分よりも優れた文化人の判断基準から自分を判断し、今の自分に不満を持つ

自分よりも低俗であると判断した人を見て、自分の状態に満足感を得る

自分よりも優れた文化人の判断基準から自分を判断し、今の自分に不満を持つ

自分の自然な欲求、好み、意見を最も優れた価値基準であると考える

生きることは、絶え間ない緊張であり、不断の修練である

生きるとは、幸せに身を置くことが一番で、その上で自己の向上を図る

自分よりも優れた文化人の判断基準から自分を判断し、今の自分に不満を持つ

生きるとは、幸せに身を置くことである

自分の愚劣さから逃れるための英知を持っている

自分には愚劣さは無いと思い込み、あったとしても自分よりも愚劣な連中がいることで安堵感を得る

自分の愚劣さから逃れたいが、十分な英知が無かったり、あったとしても周りがそれを許さない環境に置かれている

自分の凡俗なところを認めてくれる仲間たちと共振する

判断力のある人達の支配を望む

自分にとって都合が良ければ、誰に支配されても良い

判断力のある人達の支配を望む

世論(民衆)による支配を望む

公共的な目的、公共の場を大切にする

公共的な目的・公共的な場は、体面上大切にするが、実際はプライベートに力を入れている

公共的な目的、公共の場を大切にすることで、すこしでも高貴な人と触れ合おうとする

プライベートな娯楽生活を大切にする

 以上のように大衆批判論について考えてきたが、橋本氏が嘆いていた「世襲型」社会を再構築するためには、超大衆の割合が増えなければいけないと思う。現在の日本は、大衆が多すぎる。超大衆の割合が増えることで、エリートと超大衆の間で入れ替えが起こってくるはずだ。

 超大衆の割合を増やす方法として、国公立大学の教養教育無料化・授業料後払い制などを挙げておく。

 

《何のために読むか:P39》《多読の仕方いろいろ:P43

 読書の目的を、橋本氏は3つに分類していたが、私は読書に目的は不要だと思う。橋本氏の考えている読書の目的は、間違ってはいないし、むしろ的確に表現しているので納得してしまう。しかし、考えてもらい点が一つある。それは、「読書に目的を求めているのは、読書嫌いの人であり、読書好きの(=読書に見識のある)人ではない。」ということだ。

読書に見識のある人、読書好きの人は、自分なりの読書に対する価値観を持っているが、読書嫌いの人には、そうした価値観が無い。(だから読書嫌いになるのだろう。)

 橋本氏の意見は、読書に見識のある人や読書好きの人には納得いくものであろうが、読書嫌いの人にとっては、ただの「カッコいい意見」に過ぎない。私は、この講義を受けるまで、ほとんど読書をしてこなかった。そう、読書嫌いだったのだ。私が、読書嫌いになった理由の一つに、「読書に対して、意味を見出そうとしてきた」ことが挙げられる。何のために読書をするのか、ということを高校の時考えたが、答えは無かった。答えが見つけられなかったせいで、読書嫌いになったのだろう。

 しかし、大学に入り、この講義を受け、私は一つの結論に達した。それは、「読書に目的を持つことには意味が無い。」という考えだ。一見すると、非常に馬鹿げている発想である。だが、よく考えてもらいたい。読書に対しての(過剰な)目的意識を持ち、読書したとする。本の内容が理解でき、目的を達したならば、大きな達成感と共に自信も持てるが、本の内容が理解できずに、目的を果たせなかったらどういう心境になるだろうか。達成感は生まれず、自信どころか自分の読書力の無さに落胆し、読書嫌いの道を歩んでしまう可能性が出てくる。読書に対する要らぬ期待・目的を持つことで、読書嫌いになったら意味が無い。

 「読書=実学」という考えを持っている人には、私の意見はおかしなものであると、自分でも確信している。しかし、そのような考えを持ち、自分なりの読書スタイルを身に付けている人に、私は自分の意見を押し付けようとは思わないし、逆に私の意見に賛同してもらいたくない。自分のスタイルを貫いてもらいたいと思う。

 ここでの意見をまとめる。確かに、橋本氏の挙げる読書の目的は、納得がいく。しかし、読書に過剰な期待・目的を持つことは、読書嫌いへの道に嵌ってしまう危険性があることも認識しておくべきだ。このようなことを踏まえたうえで、私は後に書かれている「多読の仕方いろいろ」の中で挙げられている、理解せずに大量に読むという意見を支持したい。

 ここで、以前の小レポートで書いた内容を載せておく。

@:「内容を理解しない=本を読む価値はない」という考えは正しいのか。

A:読書した内容を『寝かせる』意義

B:多くの本を読む意義

 

@:「読書=実学」という考え方は、かなり一般的なものであるし、この考え方が間違っているとは思わない。しかし、あまりに「読書=実学」を意識しすぎることで、本を読み終えた時に何も得られなかった場合、読書に対して失望し、ついには読書嫌いになってしまうという可能性もあるのではないだろうか。つまり、「読書=即実学」という考え方は、読書が成功した場合(=本の内容が理解できた時)には大きな自信になるが、読書が失敗に終わる時(=本の内容を理解できなかった時)には、読書に対して不信感を抱いてしまうかもしれない、という大きなリスクを背負っているように思う。

A:せっかく読書したのに、内容が理解できなければ、誰しも多少の苛立ちは感じるであろう。その苛立ちを感じる原因は、読書に対する過度の期待(=即実学的な考え方)によると思う。

そこで、読書した内容を『寝かせる』・『発酵させる』という考え方を持ったらどうか、と僕は思う。つまり、読書した内容は、すぐに自分の知識となるのではなく、ある程度の時間が経過してこそ、自分のものになるという考え方を、持ったらどうかと思うのである。この考え方は、高校の教科書に載っていた『思考の整理学』(外山滋比古著)によるものだ。

時間が経つと、その時間の分だけ、人は何かしらの知識なり感情等を得る。時間の経過=人の進化(発育・発達)と考えると、内容がわからなかった本でも、時間が経てばわかるようになるのは、ごく自然なことである。その自然な流れに反して、本からすぐに知識を得ようとしている態度こそ、おかしなものではないだろうか。

B:読書した内容が、理解できない時は上でも書いたように、『発酵させる』のが一番であるが、より良い『発酵』を行うための条件として、周りの環境を整えることは、非常に大切なことであろう。その環境に相当するものが、『読書量』であると思う。一冊の本を読んだだけで、その内容がわかれば苦労しない。同じような事が書かれている本を何冊も読むことで、周りの環境は、ある方向性を持って整備されていき、より良い『発酵』を促してくれると考える。

読書の仕方としては、多読のほうが望ましいであろう。と言うのも、精読では時間がかかりすぎる上に、ある考え方に固着してしまう可能性もあるからだ。

本来なら、「内容を理解して、大量に読む」ことが望ましいのであろうが、なかなか上手くはいかない。むしろ、上手くいってしまうと読書の価値はなくなってしまうだろう。言い換えると、「理解できないようの部分があるからこそ、読書には価値がある。」のである。内容が理解できない時に挫折して、読書を止めてしまうのではなく、『寝かせる』と言うことを大切にしたいものだ。

 

《なぜ議論すべきなのか:P53

 ここでは、橋本氏に対する批判ではなく、私の意見について少し述べておく。その内容は、「議論」と「説得」の違いについてである。「世界は、議論の上に成り立っている」という言葉を耳にするが、この表現は、おかしくないだろうか。「世界は、説得or折衷or妥協の上に成立している」と言うべきではないだろうか。

 『議論の目的は、『自己形成』に他ならないと思う。自分と考えの違う人と話し合うことで、自分に多くの考え方を身に付けること、そして多くの考え方から更に高度な価値観を生み出していくことに、議論の価値があり、それが議論の目的であると思っている。

議論は、自分の意見をもって相手を打ち負かすのではなく、その議論を通して互いの成長を期待するようなことだと思う。初めから、相手を打ち負かすという意識を持っていては、それは議論ではなく、「説得」になってしまう。』(私の小レポートより)

 

《見えない学力が「問い」を生む:P62

 ある授業で、海中の生物の様子について、ビデヲを見たことがあった。学生の多く(私を含めて)は、生物の行動の様子や仕草に、感動し興味を持った。その時、授業を担当していた教官の言葉が印象的だった。

「単に、生物の様子を見て関心・興味を持っただけでは駄目だ。その関心から、新しい発見や理解ができてこそ、関心には価値がある。」という言葉だった。

 そこで橋本氏への批判だ。橋本氏は、見えない学力(2)(経験、関心等)の重要性を説いていたが、これだけでは不十分だ。つまり、その見えない学力(2)を見える形に置き換える能力も、重要な能力ではないだろうか。いくら、物事に関心を持っていても、そこから新しい発見や理解ができなければ何の役にも立たない能力となってしまはないだろうか。

 創造したことを実践に移す能力の重要性についても触れるべきだと思う。

 

《終わりに》

 私は、この講義の受講が決まったとき、かなりショックだった。第1希望の講義が外れ、第2希望で出した講義への受講だったからだ。しかし、今ではこの講義を受けられた事に大変な満足感を感じている。この「学問の技法」を通して、大学ですること・しなければならないことが分かった上で、今後の指針が得られた。様々な技法を通して、自分なりの大学ビジョンが建てられた。もちろん橋本氏の意見に全て納得していない。ただ、こうして「考える機会」を提供してくださった橋本氏には大変感謝している。

《追記》

 この本のタイトル「学問の技法」は、やや読者に硬いイメージを抱かせる。そこで、本のタイトルを「学問への誘い」や「学問への招待」としてはどうだろうか。

 

 

 

 

学問の技法レポート9  山内 康江 15040214

                                                              

 今回は批判を書けということなので、おもいつくままに書いてみる。2ページをはじめとしてこの文章全体では何度も、自分で新しい問いを立てることが重要だと述べられている。そして、学問とは「まだ答えの確定していない問いを発すること」と定義している。私はまず、このように定義された学問をそのまま受け入れるのではなく、むしろ「学問とはいったい何か?」という問いをたて、それに対する答えを各自が模索しながら他の問いも自分で立ててみると良いと思う。なんだか矛盾しているようなよくわからない主張で申し訳ない。

 3ページで「学問をする場合、自分の精神を鍛えるためにとか、教養を身につけるためにとか、そういった目的からはじめると、多くの人は途中で挫折してしまうようにできている」と述べられているが必ずしもそうとは言えないだろう。むしろそのような理由から始める人のほうが多いと思うが、せっかく学問をしようと意気込んでいてもいきなり初端から進み方を否定されてはその時点で挫折してしまうことになる。もう少し柔らかい言い方をしたほうがよいのではないか。

 受験勉強で精神と体力を消耗してしまった人は、もはや学問をすることにまで活動のエネルギーがまわらない、とあるがそれは全くもってその通りだと言えよう。初回の授業で先生は大胆な大学改革案を提示しており、その時はその案に抵抗感を感じたが今ではそうは思っていない。むしろ賛成の立場である。今の入試制度の下では高校までの学習の目的があまりにも大学合格にばかり向けられてしまっている。少子化によって受験競争に負担のかからない社会が訪れれば状況は変わるかもしれないと示唆しているがそれは非常に淡い期待でしかないだろう。なぜなら既にゆとり教育に見られるように競走緩和は失敗の感が否めないからだ。国際化に伴い議論の能力の必要性が叫ばれているが、まだその重大さに国民が気づいているとは言えない。後半のほうで議論に関していろいろと書かれていた。その必要性に関しては誰も異論を唱えないと思うが、伝統を重んじる立場(以心伝心など)の方々からすれば素直に推進することは難しいだろう。その理由は先生のレジュメに書かれている議論のしかたについては少し過激な感じがする部分もあったからだ。学生の中には親がそういった立場をとっているという人も少なからずいると思うので、そのような人々に対してはどうするのか、というような事を多少示唆していただきたい。

 学問とはつまり、より善く生きることについての洞察をめくらすことであるだろう、という言い回しを読んですぐにソクラテスが浮かんだ。先生は学問とはある意味、哲学の範囲に存在するものであるのかもしれない、と言いたいのだろうか。では、学問をするということは哲学をするということなのか。イコールなのか。それとも異なるのか。よく分からなくなってしまう。あるいはそれすらも自分で考えてみよ、ということなのだろうか。

 次に6ページあたりで述べられている「内的動機」と「外的動機」について意見を言いたい。「外的動機」から始めて「内的動機」に移行するのが望ましいようなかかれ方がされているが、必ずしも「内的動機」に移行しなければいけないのだろうか。そうではないだろう。「褒められたい」とか「評価されたい」といったいわゆる「外的動機」は人間社会の中で生活していれば周りとの接触の中で自然と思うことであり、そう思うことが社会の中で自分の役割を果たしながら生活しているという証ではないだろうか。「内的動機」への無理な移行は社会の中の個人としての地位を危ぶませる危険性があるように思う。今、ふと思ったことなのだがマラソン選手の高橋尚子さんがシドニーオリンピックで金メダルをとった時に「自分で自分を褒めてあげたい」といったのは有名な話だが、「褒められたい」ではなく「自分を褒めたい」というのは「内的動機」なのだろうか・・?

 知ることよりも「知っていないと恥ずかしい」という知的恥じらいを、学問を持続させる上で奨励しているが、私はやはり純粋に「知りたい」という好奇心のほうが学問を持続させるためには適しているように思う。やりたくないことはいくら無理やりやっても長続きしないだろう。嫌々やっていればちっとも楽しくないし、無理やりしていることで一層それを嫌いになりそうである。楽しみながらする、これが私の持論である。

 12~13ページにかけて「あなたにとって学問とは何か:七つのタイプ」ということがかかれているが、その中でCの日常主義の説明が良くわからない。このタイプの人は、結局はあまり積極的に学問に励まないということなのか。この説明を読むと現代人のほとんどがこれに当たる気がすると同時に、先生はこのタイプの人は奨励してないと思うのでこの箇所で密かに現代人批判をしているのでは、と思った。

 16ページを読んでいて予備校のある一人の先生を思い出した。その先生は国語の教師で私は現代文を教わっていたのだが、毎回の授業では先生の知識の多さに圧倒されっぱなしであった。そして、ひとつのことに関していろいろな方面からの見解を述べてくれるので飽きることなく楽しく授業を受けることができた。こんなふうに博識になれるのは「背筋が勝負」とかかれていたが、精神的な持続力のある背筋とはすなわち簡単に言えば努力のことではないのか。あまり比喩をつかわなくても簡単に理解できる部分はもっと簡略化して書いてよいと思う。

 ひとつ要望がある。18ページで脳と心に緊張感を保つためには「知の快楽」が減退したときにも「気概」を持って何かに取り組むという資質が必要で、学生に気概を持つように教育するのは重要な徳育だと述べながら、自分にはそれを教える力量がないからと話が中途半端に終わってしまっているような気がする。では、われわれ学生はどうすれば「気概」をもてるようになるなか、という具体的な話を書いてほしい。他の人の著作からの抜粋でもよいので、何かを提示していただきたい。

  ルソーの教育論『エミール』にあるという「十八歳にもなれば、哲学でテコとは何かを学ぶ。だが、十二歳の百姓の息子であれば、アカデミーきっての力学の専門家よりもテコの上手な使い方を知っている。」に対して百姓の息子はそれでテコとは何かを知っていることになるだろうか、という問題に自分なりの見解を述べてみたい。私の考える「知る」ということは「経験する」ということとイコールである。だから、もちろんこの百姓の息子はテコを何度も使うという経験をしているのでテコとは何かを知っているといえるだろう。また、力学の専門家もたとえ実際にテコを使ったことがないとしても本を読むという経験を通じてテコとは何かを知っていると言えるのだ。しかし、このふたつは完全には一致しない。経験しているものが違うからだ。そしてむしろ両方とも不十分であるといってよい。この実際にテコを使うという経験と本を読んでテコを知るという経験の二つがそろって初めて完全な知に近づけるのではないか。

 知性と感性の二分法のことを述べている箇所で、大学入試に「美術」や「音楽」などの芸術一般に関する入試試験を課すことを提案しているが、これは現実的に無理であるし、入試制度が不平等になってしまう危険性がある。芸術科目以外のものはペーパーテストによりそれぞれの解答を比較的、平等にみることができる。予め答えが決まっているので正解と不正解の線引きをするのが容易である。しかし、芸術はそうはいかない。そこには確実な答えなどはなく、必ず見る側の主観が入ってしまい、平等に判断できる可能性は低い。そこで、芸術の歴史や作法などを試験の内容とするのはどうか、という意見があるかもしれない。しかしそれでは現行の試験とたいした差はない。新たにする意味が全くない。

 全体の文章に関して言うと、まず説明する上で比喩を多用している印象を受けた。もちろんわかりやすくするためには良いことなのだが、むしろわかりづらくなっている箇所もいくつかあったのであまり比喩に頼らなくてもよいと思う。それから、「・・・〜を自覚することが必要だ」のような言い回しが大変多いと感じた。自覚、自覚、自覚・・・・・。そんなにいわれると読者としては少々疲れてしまう。また、これと似たようなことだが「・・・〜しよう」という言い方も多い。というよりも文章自体が読書のアドバイスだから多少しかたがないのかもしれないがあれもすれ、これもすれ、そしてこっちも・・・といったようにやらなくてはいけないことがたくさん有りすぎて余計混乱をしそうだ。すべてを文章で述べた後に箇条書きのようにしてアドバイスしてくれたことをどの順序ですればよいかを書いていただけるととても嬉しく思う。そうしなければ、結局何もできずに以前と変わらない生活を送ってしまいそうだ。また、いろんな箇所で主張していることが重複していることが多く見られた。「この主張はさっきどこかで読んだな・・」となんど思ったかわからないくらいだ。この重複している部分をもっと整理できれば文章自体も短くなってより読みやすくなると思う。何度も同じことが書かれていると「またこれか」という印象を読者に与えてしまい読む気力を奪ってしまうことになる。この点は最も気をつけるべきであろう。

 

 

 

 

学問の技法 野本涼子

1回目 休んだため別の内容

去年の11月、カンボジアで子供たちの支援をしている栗本英世さんという方の講演を聴きました。「慈悲魔」や「人身売買」など興味深いお話がたくさんありましたが、中でも最近気になるのが「支援先の人々と友達になる」ということです。彼は約20年支援活動を続けていますが、つい最近大変なことに気づいたそうです。それは、「相手の視線に立ってはいけない」ということです。それまで20年信じつづけてきた「相手の視線に立って考える」というのは間違いであったというのです。なぜなら、それは相手の視線まで自分を下げるという意味で、つまり自分が相手の上にいるという前提があるからです。それではいけないと思った栗本さんは、「相手と友達になる」という意識で臨むことにしたそうです。

さて、最近イラク関連の報道をよく目にします。私はその報道を眺めるばかりで詳しいことは知りません。ただ、派兵に次ぐ撤退の問題で、思い出したのは栗本さんのその言葉です。

まず私は、自分の国に武器を持った人たちが入ってくると、とてつもなく大きな不信感を抱くと思います。まして自分の住むところが爆撃された後で、その爆撃をした国と仲がいいらしい国の軍隊が「助けてやろう」などと言いながら武器を持ってやってきたら、本当に不安です。実際に危険かどうかの問題ではありません、いかにその行動が不審かということです。

次に、人質事件が始まったころ、「即撤退はテロリストの思うつぼ」といった言葉に私は戸惑いました。そこにテロリスト=敵という意識を感じたからです。テロリストでなければ誰もが自衛隊の駐留を望んでいる味方であるということでしょうか?前述したように、そうとは思えません。それでは見た目は敵同士になってしまいます。

何かが、おかしいなと思いました。「イラクは」「アメリカは」「日本は」などとひとくくりにまとめたりせず、誰が何のために何をするのかきちんと整理しないと、支援は支援と呼べません。

自衛隊の派兵以来、もともと友達として支援活動をしていた人々が「活動しづらくなった」と高遠さんが言っているのをテレビで見ました。それから人質事件が起こり、解放後のある新聞の社説を見て私はまた、「おかしいな」と思いました。そこには、「今井さんや郡山さんは会見でとても饒舌でありながら、謝罪の言葉が素直に出ない」といったことが書いてありました。素直に謝れとはどういうことでしょうか?悪いのは誰か、よく考える必要があると思うので、この問題はもう少し深く考えてみます。

 私は、人を助けに行くのに武器を持っていくのは間違っていると思います。治安の悪さを危惧して武器を持ち込むぐらいなら、初めから行かないほうがいいです。純粋な視点で見て、支援される側の不信感を思うとどうしてそのようなことをするのか不思議なぐらいです。

栗本さんはカンボジアの「友達」の人々が「〜したい」と言ったことだけに応えて活動しています。決して独り善がりでなく、また、現地の人々の自立を考えたその姿勢に私は賛同します。「友達」にならず、支援以外の恣意をからめたり、自分は安全でいたいと思ったりしては、かえって支援される側の迷惑になるというのが、最近思ったことです。

 

                プライドとパトス

始めに「プライド」の定義を明らかにしたい。私は「プライド」とは、自分がある程度高い水準で発揮できる能力に対して抱く誇りのようなものだと思っていた。一方、先生の論の中に出てきた「プライド」は、自分をよく見せたい”“格好悪いところは見せられないという気持ちのことだろう。その食い違いに、授業中は気づかなかった。レポート中では「プライド」を後者の意味にして話を進める。

* * * * * *

プライドとパトスを結びつけて書きたい。

ここでは、学校において学ぶ際プライドとパトスがどのように表面化するか具体例を挙げ、両者の関わりを探り、中身のないプライドを捨てるとは実際どうすることなのか考える。

 

・具体例1  授業前の会話。「レポート書いてみんなで読み合うなんて、批評されたら傷つくよな」というような内容が聞こえた。

・具体例2  私は語学の学習が好きだ。なるべくたくさんの言語を、なるべく上手に話したいと思っている。上達への近道は大きな声で口頭練習を繰り返すことだと信じているので、昨夜は家で、今朝は犬の散歩をしながら中国語の課題の練習をした。登校後、CALL教室(十数人人がいた)で課題を録音し提出したが、一人で行くのが恥ずかしかったので友達についてきてもらった。

 

たいてい、プライドを守りたい人はパトスが希薄であると思う。可でもいい、単位さえ取れればいいので授業は無難にやり過ごしたい。そう思っている人はたくさんいるのではないか。1でも、真剣に取り組むつもりなどないのに、なぜわざわざ自分の考えなど人目にさらさなくてはならないのかというメッセージが伝わってくる。これこそが打ち砕くべきプライドである。

彼らが怠惰な人間だとは思わない。日本人は自分の意見を述べる機会が少ないと言われるように、発言したり失敗したりする練習が十分にできていない。それで大きくなって急に意見を求められれば、おかしなことを言って笑われたりはしないかと不安や恥じらいを感じるのは自然だと思う。発言の仕方を身につけていなければ、形成されたプライドを守る方法は、沈黙するしかない。パトスについても、朝起きて突然生じるものではない。「知りたい」という思いは、学ぶ対象に強く惹きつけられる経験がなくてはならない。また、惹かれた後、学習を継続させる力も必要である。それが無ければパトスは長続きしない。その二つを得られる機会が無ければ、パトスを持つことができなくなる。よって、中身のないプライドが形成されてしまい、パトスが生じるような機械を求めることができなくなる。そうなってしまった人が、大学に入って、1のような心境になるのだと思う。プライドとは身を守る鎧のようなもので、一度できてしまえば打ち砕くのは難しい。

 

具体例2でいうと、私には語学に対するパトスがありながら、大きな声で(下手に)発音するのを聞かせたくないというプライドがある。そこで私は、課題を真剣にやって提出したいというパトスでプライドを隠したといえる。もしプライドのほうが強ければ、授業中に小声で録音してしまえばすむことだからだ.つまり、パトスとプライドが共存していれば、プライドを打ち砕いてしまうことは難しくても、押し込めることはできなくはないということだ.

ここまでを見ると、プライドの大きさとパトスの希薄さ、プライドの小ささとパトスの強さの間には相関関係があるかのように見える。強いパトスを持つ人はプライドが小さいというような因果関係はないような気もするが、ただ、パトスが強いほどプライドは捨てやすいのではないかということだ。

これが成り立つとすれば、パトスがなければプライドを捨てる必要はない。これが、先生の言う「傷つけてくれる人に出会わない」ということなのだと思う。プライドを捨てる必要性、まずそれが必要だ。

 では、プライドを小さくするためにはどうしたらいいか?私がいい方法だと思うのはディベートだ。ディベート(教室ディベート)はルールのある議論の方法で、「〜すべき」という論題に対して、論者を肯定側と否定側に、第3者が分ける。つまり、主張するのは自分の意見ではなく、また責任や不安はチームで共有できるので、発言の練習になると思う。そうすればそのうち自分個人の意見も言えるようになるのではないか。また、ディベートをすれば物事の考え方が身に付くので、「頭が悪いとかっこわるい」という不安もある程度解消できるはずだ。以上が、プライドを主体に今週考えたことだ。

 

自己否定について

 原稿中の自己否定度の項目にはたくさんの疑問がある。 まず、このチェックリストによって自己否定度を20点にするためには、現在の自分にいくつかの前提が必要だ。それは、現在自分は、惰性的に生きていて、疎外感を感じ自由でなく、これまでは「良い子」であり、主体性をもたず、心のどこかで学歴重視を受け入れているという前提だ。

 次に、第7項についてはただの凡人が何かよくわからず、第8項の大いなるプロジェクトも意味がわからない。その二つに関しては的確な定義がなければ肯定も否定もできない。

 また、ほとんどの項目に複数の内容が含まれていて、「前半はそう思うけれど後半はそう思わない」ということもよくある。

 さらに、自己否定という言葉も馴染みにくい。向上心理想の自分に変えたほうが同じ項目でもチェックしやすいと思う。なぜなら否定にはその字のとおり否定的で精神衛生上よくないイメージがあり、自分を改善するために「よし、否定しよう!」とは思えないからだ。そこで私は、チェックリストの意味をできるだけ汲み取ったつもりで、よりポジティヴでチェックしやすく、より多くの人に当てはまるよう改案を考えた。

 

1 ちっぽけな自分ではいたくない

2 惰性的な日常を過ごさずに、熱情をもって生きていたい。

3 精神的抑圧を感じることなく、生き生きとしていたい。

4 社会的に望ましいという型にはめられることがないようにしたい。

5 主体性をもって行動することに対して権力・権威などが障壁となるようであれ

ば排除したい。

6 学歴を気にせずにいたい。

7 地位を求めしがみつくことのないようにしたい。

8 (?)

9 欺瞞的ではない、ほんものの生き方で生きていきたい。

10 素朴な感性を汚さず、清浄に保ちたい。

これらの項目では、これからの生き方を含めた長期的な姿勢が回答に現れると思う。馴染みやすいかは自分でもわからないので班のみんなに意見を聞きたい。

さて、ここでレポートは終わり、私は先生やみんなに問いかけたいことがあります。原稿中に出てきた「プライドを傷つけてくれる人」とは先生自身のことではないのかと私は思っています。私たち学生が毎回書くレポートに、先生が「紙クズ」でも「ゴミ」でも、有意なアドバイスでも、「こんな意見では参考にならない」などでも、何らかのコメントをつけてくだされば、「プライド」を弱めるきっかけになるのではないかということです。私に限っていえば、レポートの内容を悪く評価されることに問題はありません。むしろ自分が書いているものの客観的な評価が無いまま書き続けることのほうが問題だと思います。生徒同士で読み合いをしても、闊達な意見交換は生まれないことが多々あります。「プライド」が砕けていないからです。

先生として、「学問の技法」を身につけることを薦める著者として、毎回のレポートにコメントをつけていただければいいなあと、私はいつも思っています。

 

読書の必要性

 中島敦の、西遊記を題材にした小説に、次のような内容が書いてあった。「悟空は薬草の名など一つも知らないのに、その生えている場所や使い方はよく知っている。一方私(沙悟浄)はあらゆる薬草の名を知っていながら実際草むらに入ってみるとどれがどの草なのか見分けがつかない。」

本を読むことが役に立つかどうかは、自分がどのように生きるかによって変わってくる。例えば、現場に入って体で覚えなくてはならない仕事に就くのと、小説家のように文章を書いて暮らすのとでは、本の大切さには差が出るだろう。前者は体で覚えれば仕事にはなるが、後者は本を読んでたくさんの思想や語彙を身につけなければならない。どんな感性をもっていてもそれを表現する言葉が無くては文章にならないからだ。

ただ、どのような生き方でも、何かを身につけるなら、読書は役に立つエッセンスになると思う。

 私の将来の夢は、カンボジア子どもの家(という教育支援施設)のスタッフになることだ。支援は、現場のニーズに合わせて、現地の人と一緒になってするべきだと、私の尊敬する支援者である栗本英世氏は言う。現場を知らなくては何が正しい支援なのかもわからないのだ。ただ、支援関係の本を読んで、どこの国のどういった支援は成功で、何が失敗で、過去にこういう事があった、こういう人がいた、といったことを知るのは、活動するうえで大いに有意だと思う。

だから、「本を読んでも何のことだかさっぱりわからない、こんな事に時間を費やしていては明日の生活が危うい」という人でなければ本を読むことは大切だ。例え仕事をしないという人がいたとしても、世論に惑わされたり、マスコミに煽動されるまま世論を形成したり、えらい人のいうことだからと信じ込んだり、詐欺にあったり、と、自分が揺れてしまって痛い目を見る可能性だってある。それに対抗する力は、読書量だと思う。世の中にあるいろいろな考え方を知ることで、いかに言葉巧みにもっともらしい事を言われても鵜呑みにはしない力が生まれるのではないだろうか。だから読書は大切なのだ。

何も読書をしなくても、映画や講演に行けばいいではないか、と思われるかもしれない。確かにそのとおり、そちらも必要だと思う。だから、それぞれのメリットを挙げてみる。

本は、いつでもどこでも、好きなときに好きな量読むことができる。最大のポイントは、ゆっくり読んだり、少し戻って読み返したり、気になる部分だけを拾って読んだりと、読み方が自由で個人に合わせやすいということだ。読み進む都度、噛み砕く時間があるのがいい。

映画や講演は、受動的に受け取るものであるから、努力して先に進まなくとも、自然に耳に入ってくる。そして、何がそのテーマであるか考えながら内容を受けとることができる。能動的な行動を、「考える」ことだけに絞れる。(ただ一つ注意したいのは、講演で言われたことを鵜呑みにしないような読書量がいるのではないかということだ)

だからどちらもバランス良く経験するのがいいのだ、と思った。今週は私もいろいろと本を読んでみた。

 

[これを書いていると、文学部の前期試験(国語)を思い出した。そういえば、悲惨な映像の鮮明な印象を言葉で説明する力が受け手に無ければ、その映像にいかなるメッセージがこもっていようとも受け手に恐怖を植え付けるだけに過ぎなくなってしまうこともある、のようなことが書かれた問題文だった。]

 

 

辞書サーフィン

私は辞書を読むのが好きです。といっても噂の新明解を引いて面白い書き方を楽しむというのではありません。(もちろんそれも好きですが。ちなみに私は子供のころから国語辞典は新明解一冊で育ってきたのでもしかしたら知らないうちにその主観的な説明を刷り込まれているかもしれません・・・)いや、むしろ好きではないのかもしれません。私の辞書好きはかなりやっかいです。面倒でいやになってもやめられないのです。必要なことがあって1項目辞書を引くと、同じページでたまたま見つけた別の言葉が気になって、もうその項目を引かずにはいられなくなるという強迫的な興味が沸いてきて、すぐにそれを引きます。そして満足する前に、また別の言葉が目にとまって・・・と、これを延々と繰り返します。辞書を閉じる一瞬前に飛び込んできた言葉が気になれば、そのあたりをもう一度開いて探します。さがしてページをめくるうちに次々言葉が目にとまり、ひたすら寄り道を繰り返して結局もともと何を探していたのか忘れてしまう、といった悔しい体験もしばしばです。

高校の英語の時間などは、とくに英語だと知らない言葉が多すぎて、つい授業中ずっと「辞書サーフィン」してしまうことがよくありました。ですから予習のときはなるべく目を細めてほかのものを見ないようにして、寄り道を最小限にとどめようとしたりもしました。中学生のときはメモ魔で、これを書きとめておかねば!といった強迫観念に駆られ

てメモ用の見開きB6ノートにひたすらいろいろなことを書きました。

文章を読むときは、とくに物語以外では、あまり集中しません。私は高校のときディベートをしていて、文献から資料を探す毎日だったのですが、限られた時間でできるだけ役に立つ部分をたくさん見つける必要がありました。最初から黙々と読んでも焦りが先に立って内容が入ってきません。事実要らない部分がほとんどなのです。次から次へと拾い読みをしました。そのせいなのか、「辞書サーフィン」で目移りの癖がついたのか、私はページの中で「うずまき読み」「ジグザグ読み」をします。はじめは文章を追って、すぐに目で追う線がページいっぱいのうずまきやジグザグになってしまうのです。とくにうずまきは困ります。内容が理解できないからです。ただ辞書から興味のある言葉を探すように、文章から目にとまる言葉はないか探してしまいます。

このような困った習慣が、文章を読む際の癖です。最近は、文章の区切りごとを一まとめに読んで、パッと視線を移していく読み方に挑戦しようと思っています。視線が渦を巻くのを防げるのではないかと思いました。

本を読みはじめるやり方は、「積ん読」に賛成です。私の本棚にも手付かずの本が何冊か積まれています。そのうち読むさ、と思っていれば手に取りやすくなると思います。本は、買おうと思ったときに手に入れておかなければ、後で手に入らなくなってしまうことがよくあります。あまりためらわずに本が買えるようにしたいと思いました。

 

討論もどき

最近テレビで討論もどきをよく見かける。政治について何かの専門家たちが円になって座って、ワイワイ言い合っている番組だ。そのやり取りはたいていこんな感じだ。「いや私が思うに、それはね、もちろん○○ということではないんですよ、もちろんね。ただ・・・」「いや、ちょっと待ってくださいよ、あなたはそんなこといいますけどね・・・」

「要するに、○○かどうかということはさておいて、ここで大事なのはですね

それも2、3人が同時にしゃべり、特になんでもないところでひどく笑う。内容はどうかというと、前置きが8割ぐらい、本当に意見のようなことを述べているのはごくわずかの時間だ。ではその人たちに、「5分間とります。この問題についてあなたの意見を述べてください」と言えばどうなるだろう?誰にも邪魔されることなく、静かな中、自分だけが話せる時間だ。そこで、私の頭に浮かんでくるのは次のような始まりです。「えー、この問題はたいへん複雑でいろいろなことが絡み合っているものですからね、そうそう簡単にはいかないものなんですよ。ですから、それを5分という短い時間でお話しするのはなかなか難しいことではないかと思うんですけど、・・・えー、まず最初に申し上げておきますのが

次のような話はとても浮かんでこない。「では3点お話しますが、まず1点目は○○ということです。それは○○○○○ということですが、なぜなら○○○○○○○だからです。□□□ということからもそれがわかります。つぎに2点目

討論もどきには時間がたくさんかかって内容が薄い。それでひととおり時間がくると、「今日は先生方、お忙しい中おいでいただいて、貴重な意見をありがとうございました」と司会が言って終わる。私はいつも、どのあたりが貴重だったのかなぁ?と考えてしまう。その気になれば3分間でも5分間でもかなりの内容のことが話せる。議論らしい議論をするために、時間を守ることはとても大切だと思う。要点を的確に話せるようにする練習をすれば、時間にも余裕ができる。そうすれば、人の話を聞いて、自分も話して、という順序を守ることもできるのではないか。討論もどきでは誰も人の意見など聞いていない。発言するときは、あたかも自分の方がいいことを言うから黙って聞いていろと言っているかのような態度だ。まず発言者の責任と論拠のある論があって、それを聞き手が解釈して同意や反駁を加えることによって議論は進展していく。そのとき、何がテーマなのかもしっかりしていなければならない。「年金について」「選挙について」では大きすぎる。たとえそのようにテーマが定まっていたとしても、今はその中の何について論じているのか発言者同士が理解している必要がある(実はこれがちょっと難しい)。

しかも、討論もどき番組には、大きな声で主張して相手を言い負かせば勝ち、のような雰囲気がある。もし勝ち負けがあるのだとしたら、そこには理路整然とした論理が必要だ。

討論もどき番組を見て、若い人に「これが議論と言うものか」と誤解してほしくないと思う。

 

学問の技法に対して       野本涼子

原稿へのコメントとして初めに要約を記し、内容を3点具体的に述べる。

(要約)

原稿には持論によってあるいはある前提をもとに書かれている部分があるにもかかわらず、その持論や前提を明らかにしていない場合があるため、一読して馴染みにくい(説得力がない)印象がある。「はじめに」の項ではこの本は学問してみようと思う人なら誰にでも勧める、のようなくだりがあるのに、対象とされているのはもっと狭い範囲の人であるように思われるのはそのためか。なぜそのことを主張するのか、その根底にどういった考え・理由があるのか、これを明らかにしない文章を読んでもその意を汲み取り、自分なりに噛み砕き批判や賛同を与えることのできる人なら、はじめから「学問の技法」というような本は手にしないだろう。特に読み手が、これから学問するために入門書といったものを読もうとする(ような学問に馴染みのない)人であるということを意識するなら、平易に理解できてこれなら実践できそうだと思わせるような文章にすることが必要だ。そのため衒学的に傾いているととられかねない表現や、主張のみに終わって理由のつけられていない箇所にはくどいほどの説明が必要だ。

 

@     言葉の定義を明らかにする。

p8のプライド、p21の自己否定などの言葉は書き手と読み手の間でイメージがずれそうだ。たとえばプライドは、守るべき自分の誇りであるとか、自分の技能に対して抱く一種の自信であるという意味でも使われる。いきなり「プライドを捨てろ」と言われると、深く考えずに「それはよくない」と返してしまいそうだ。そこで、「文中ではプライドを見栄に近い意味で使っており、ここでいうプライドとは仮の姿でもよいから自分をかっこう良く見せていたいという心のことだ」というように説明を入れると、読み手にも一考する余裕が生まれてくる。あるいは言葉自体を見栄などに変えてしまってもよい。このように読み手にとって意味のわかりにくい言葉は説明を加えるか、変えてしまう必要がある。

自己否定という言葉もわかりにくい。自己否定することを勧める以上、それには肯定的なイメージがなくてはならない。ところが否定という言葉は見るからに否定的だ。向上心理想の自分に変えたほうが実践しやすいと思う。なぜなら否定にはその字のとおり否定的で精神衛生上よくないイメージがあり、自分を改善するために「よし、否定しよう!」とは思えないこともあり得るからだ。

 

A偏見的前提をなくす、あるいは詳細に分類して明らかにする。

ここでも自己否定について述べる。p21中の自己否定度の項目にはたくさんの疑問がある。

 まず、このチェックリストによって自己否定度を20点にするためには、現在の自分にいくつかの前提が必要だ。それは、現在自分は、惰性的に生きていて、疎外感を感じ自由でなく、これまでは「よい子」であり、主体性をもたず、心のどこかで学歴重視を受け入れているという前提だ。

 次に、第7項についてはただの凡人が何かよくわからず、第8項の大いなるプロジェクトも意味がわからない。その二つに関しては的確な定義がなければ肯定も否定もできない。

 また、ほとんどの項目に複数の内容が含まれていて、「前半はそう思うけれど後半はそう思わない」ということもよくある。

 そこで私は、チェックリストの意味をできるだけ汲み取ったつもりで、よりポジティヴでチェックしやすく、より多くの人に当てはまるよう改案を考えた。

 

1 ちっぽけな自分ではいたくない

2 惰性的な日常を過ごさずに、熱情をもって生きていたい。

3 精神的抑圧を感じることなく、生き生きとしていたい。

4 社会的に望ましいという型にはめられることがないようにしたい。

5 主体性をもって行動することに対して権力・権威などが障壁となるようであれば排除したい。

6 学歴を気にせずにいたい。

7 地位を求めしがみつくことのないようにしたい。

8 自分の殻に閉じこもらず、人とかかわる活動に参加することで自分を変えたい。

9 欺瞞的ではない、ほんものの生き方で生きていきたい。

10 素朴な感性を汚さず、清浄に保ちたい。

これらの項目では、これからの生き方を含めた長期的な姿勢が回答に現れると思う。

馴染みやすいかどうかを班のみんなに聞いて(当時項目8は空欄だったが)、もういちどチェックしてもらったところ、点数は大幅に上がった。ただし、私の書いた項目では意味が変わりすぎてしまっている・不十分だということもあるだろう。

それらを改善するためには、つぎの二つのことを明らかにして、項目もその前提にあわせて何種類か作るべきだ。

一つは自己否定の必要性。たとえば四つめの項目に「社会的に望ましい規範」とあるが、これはやはり社会の仕組みの中で生きる以上必要なものなのだと考えることができる。規範に従い「よい子」として上役によく仕え、地道に階段を登っていくことである程度の地位すなわち給与が与えられ、世の中生きていくためにまず必要なお金があることで生活は楽になり、困窮によるストレスもなく心の平穏な暮らしができるのだと、そう考える人がいるからこそくだらない慣習すら望ましい規範として社会の中で力を持っているのだ。それを否定するためには、それなりの理由・人生観が要る。「そうは言うけどできるはずなんてない。現実を見れば、波風を立てずに生きていくのが日本人としていちばんうまいやり方なのさ」と、p4に述べられているような「すばしこさ」を大事にしている読者がいるかもしれない。ここでは、「学問を志そうというのなら、すばしこさを避けるのがよい。すなわち社会的規範にすっかり従ってしまうのはよくない。よって社会的に望ましいとされる型にはまってしまわないよう常々心がけるとよい。」のような組み立てがあれば、だいぶわかりやすい。自己否定の必要性が見えてくる。なぜ勧められているのかがわかる。いくらまじめな読者でも、よほど何度も読まなければp4に書いてあったことをp21で思い出したりはしないだろうから、こういった論のつながりの説明を通じて自己否定の必要性を指摘するとよい。そうすれば、同じチェックリストでも賛同しやすくなる。

もう一つは、読者個人が今ある状態。前述したような、惰性的に生きていて、疎外感を感じ自由でなく、これまでは「よい子」であり、主体性をもたず、心のどこかで学歴重視を受け入れているという人なら、自然にチェックする・しないを選べるだろう。しかしそうでない人は、チェックするかどうか以前に、自分がその項目から基本的に外れているため賛成も反対もできない。よってそれぞれにあうような、項目ごとに少なくとも二種類の表記(「よい子」はこっち、そうでない人はあっち、のような)が必要だ。そうすれば、より広い範囲の人が抵抗なくこのチェックリストを活用できる。

いや、抵抗を覚えてくれていいのだ、こんなものにはあてはまらなくても構わない。ということであれば、ここにチェックリストを載せてまで自己否定を勧める意味がわからない。

 

B主張に細かな理由・背景・展望をつける。

前の項目でも触れたが、「〜しよう」と勧める以上、なぜなのかをAで示したように詳しく説明し、本を著した根本的な理由を明らかにする責任がある。といっても理由は「はじめに」に書いてある。これは学問マニュアルとしてのアドバイス集である、と。

それならば一つ加えることがある。アドバイスに従うと、その後はどのようになるのかという展望だ。「おわりに」に書いてあるように「学問の技法を抜け出る」ためには、とりあえず実践してみなくてはならない。「素人」であればアドバイスが必要だということも書かれている。よって実践するためにはアドバイスに従ってみようと思うことが必要だ。つまりアドバイスには軽い魅力がなくてはならない。だから、「これを実践すればこんな風になるかも。よしやってみよう。」と実践する原動力をつけるために実践後の展望が必要なのだ。もしこの本のアドバイスに従う魅力を感じなければ、「素人」の読者は「そうは言うけど難しいよね。こんなことしてどうなるの?(この場合のクエスチョンは批判ではなく純粋な疑問)」とほかのマニュアル本を頼るのであり、それではこの本には意味がない。

もちろん今のすべてのアドバイスに魅力が無いという意味ではない。読んでいて魅力を感じる部分や心に残る言葉もある。だからこそ、すべてがそのようであればこの本はさらに有用だという意味だ。「アドバイスに従ってみて、気に入るかどうかを決め、自分のやり方を模索していく」という順序が示されている以上、アドバイスに理由と展望をつけて実践したくなるような魅力をつける義務がある。そうでなくては学問の技法から抜け出ることは最初から不可能なのであり、この本のマニュアルとしての意味が失われる。それなら「おわりに」に書いてあるようなことを膨らませて一冊の本にしたほうがよほど面白い。

私が問題にしているのは読み手がどうとらえるかではなく、書き手がどのような意図でこの本を出版するのかということだ。

 

さいごに

以上が「学問の技法」について考えた、おもに印象面での評だが、私の好みであと一言。

P24に「人生のモデルを見つけよう」とある。これには賛成だ。一人の生涯というような大きなものでなくても、この人はこうした、あの人はこれをやってみた、といった簡単な事例でよい。原稿中に出てきた背筋の折原先生という人は印象的だった。なるほど、と納得できた。だから、Bで述べたようにアドバイスには展望が必要なのだ。

「背筋を鍛えてみるといい。長く座っていることができる。実際折原先生というのは背筋力のおかげで研究力が優れている。」これはとても魅力的だ。

また、p20にあるエミールの引用も良かった。たいてい具体的なエピソードはおもしろい。いや、おもしろいからこそ引用できるのだ。抽象的な話ばかりでは退屈してしまう。こうした具体例・エピソードを増やせば、アドバイス本としてはおもしろく、読みやすくかつ心に残りやすくなる。